「人生の意味と神」 信仰をめぐる対話 ヴィクトル・フランクル ピンハス・ラピーデ共著
「人生の意味と神」 信仰をめぐる対話 ヴィクトル・フランクル ピンハス・ラピーデ共著
マルティン・ブーバー「わたしは学説を持たない。読者の手を取り、窓のところへ導き、広く眼を開かせて彼に世界を示す」
ブリッツ・ペルルス「きみは自分が窓辺に立っていると思っている。しかし実際は鏡の前に立っているにすぎない。
つまり、私の見る世界が存在しているのではなく、わたしに現れて、わたしに出会うのはわたしの自己である。
全世界は、自己表現ないし絶対的な主観性以外のなにものでもない」
妻との永遠の別れ
わたしとわたしの最初の妻がアウシュヴィッツで別れなければならなくなったときに、私が彼女に語った最後の言葉が、
「どんな犠牲を払っても生き延びるのだぞ。わかるか。どんな犠牲を払っても!」でした。
つまり、わたしはあらかじめ彼女に、場合によては姦淫を犯してもよい、やむを得ない場合には、親衛隊員に体を与えてもよいという免罪を与えました。
自己実現は、わたしの専門用語を用いれば、結果としてのみ到達できるのであって、けっして意図して到達できません。
もしわたしが自己実現を手に入れようと努力すれば、わたしはそれを失ってしまいます。
自己実現、自己充足、自己展開
「自分のいのちを救おうとする者はそれを失い、自分のいのちを失う者はそれを得る」(ルカによる福音書17章33節)
「自己実現」に執着している人間は、とどのつまりは萎縮し、粗野になり、しだいに精神的に死滅します。
ヤコブ書「行為を伴わない信仰は死んでいる」
強制収容所で弱い信仰は消された、しかし強い信仰、ほんとうの信仰についてはこう言うことさえできます、それはただ強くなっただけである。
ほんとうの信仰はより強くなり、弱い信仰は消された。
ある夫人が、豚肉を食べた時だけ、胃と大腸に痙攣をおこした。そこで、牛肉を豚肉だと彼女に言って与えると痙攣を起こした。
豚肉を牛肉と言って与えると痙攣を起こさなかった。
<意味>
ですからわたしの思索において、またロゴセラピーの言語全体において、意味のいくつかの構想が現れることになります。
意味ということで、まず人生の意味が、意味への意志によって人生にひとつの意味を与えること、したがって人生を意味で満たすことが、考えられています。
他方、それ以上に、まさにロゴセラピーにおける治療的治療的な意図において考えられているのは、
具体的な人格の具体的な意味ということで、その人は或る具体的な状況に立ち、その状況に直面しています。
そして、この意味は、いつも一度限りで唯一無比のものです。一度限りであるのは、その意味が今しか実現できないからです。
というのは、状況は不断に変わり、人生はつぎつぎと迅速に通り過ぎるもろもろの状況の連鎖であり、もろもろの意味可能性の連鎖であるからです。
もろもろの意味可能性は過ぎ去り、もろもろの状況も過ぎ去ります。ですから意味、具体的な意味可能性は、一度限りのものです。
そしてこの具体的な意味可能性が唯一無比のものであるのは、それがたんに反復され得ないだけでなく、それが比較し得ないからです。
したがって意味は時々刻々、人それぞれに変わります。不断に。このような通訳不可能性がわたしたちの責任も形成します。
それ故にわたしたちは意味を実現しなければなりません。
このことをヒレル以上に美しく語っている言葉はどこにもありません。「もしわたしがそれを為すのでないなら、誰がそれを為すのか。
もしわたしが今それを為すのでないなら、いつそれを為すべきなのか」。第一に、あなたの人格は唯一無比で、第二に、あなたの状況は一回限りです。
そして第三に、あなたはまったき自己超越を持っています。
映画はその意味を全体として持っていますが、わたしたちが個々の映像を意味関連において見るときにはじめて、その映画が理解されます。
わたしたちが死の床についているときはじめて、人生の意味も理解されます。最もうまくいった場合の話ですが。このことは次の事実をすこしも変えません。
すべての個々の映像がその意味においてわたしたちに明らかになってしまわないなら、人生全体の意味はまったく成立することができないという事実です。
すなわち、どんなに良い知と良心によっても、わたしたちが意味を今ここで満たさないならば、
人生全体の意味が少なくとも潜在的な総体性においていつか成立するようになるのか疑わしいです。
ロゴセラピーの立場から、「意味」ということで、さしあたりこの特殊な意味、今ここでの意味が考えられます。
この意味は、先ほど主張された際にあなたの念頭にも浮かんできたものです。
エロイ エロイ レマ サバクタニ(マルコ福音書15章34節) 詩編22編のはじめの言葉
ドイツ語の翻訳では、「わが神 わが神 なぜあなたは私を見捨てられたのですか」
となっています。それに対してヘブライ語が言っているのは、「わが神 わが神 何のためにあなたはわたしを見捨てられたのですか」ということです。
二光年ほどの相違があります。というのは、「なぜあなたは見捨てられたのですか」は、
神に対する疑いに由来し、神を疑問視し、後向きに、過去へ、動機付けへ向かいます。
それに対して、ヘブライ語で三千年前から立てられ、イエスもきっと知っていたであろう問いは、
未来を見ており、したがって神を疑問視しているのではなく、神に問いを立てています。
その問いは、この苦しみの意味をまったく確かなものとして前提したうえで、なぜ神がそれをわたしに課せられたのかを知りたく思っています。
<祈り>
(あなたは強制収容所で祈られましたかの問いに)、
フランクルは、その問いに対しては、どこで祈らなかったか、と問い返すことができるだけです。
(祈りはあなたに力を与えましたかの問いに)、
フランクルは、力を与えたとは、私は主張できません。だからといって、力が与えられなかったと言いたいのでもありません。
ほとんど、祈る力を持っていたことが嬉しかった、と言いたいくらいです。
わたしにとって、祈りとは、事物をまったく「永遠の相のもとで」見ること、したがってわたしにはまったく依存せずに見ることです。
祈りとは、わたしにとってむしろ承認すること、次のような視点において事物を見ることです。
すなわち、恐怖にもかかわらず事物が潜在的にふたたび意味を持つことができるような視点です。
愛 希望 人生の意味 の3つが今日の対話の根源でした。