大阪教育大での、お母さんのお話紹介(2)


将来先生になる学生の皆様へ

 このたびは貴重な講義の時間に、息子:嘉朗のことにお時間を頂きましてありがとうございました。
 最初に藤井先生からお話を伺った時に、『あんまり関係ない内容なのでは・・・?』
と思っておりましたが、たくさんの方から心温まる感想文を頂戴し、本当にうれしく思っております。

嘉朗は今19歳です。19年前、大阪中の病院を駆け巡った私は、ずっとずっと病気に生んでしまったことを詫びながら
『私の悪行が嘉朗を病気に生んでしまったんだ』と自分を責め、嘉朗のためだけに生きることに必死でした。
仕事との掛け持ちも大変でしたが、そんな私に嘉朗はいっつも笑ってくれるんです。
どんなに辛い時でも、大声で笑い、笑顔を振りまいてくれるのです。その笑い声で私を幸せにしてくれるのです。

『ママ、病気やからって悪いことばっかりとちゃうねんで。病気やからこそわかることもようけあるんやで。ママもよう考えてみ』
嘉朗がまだ3歳の時の言葉です。このとき、自分を責める気持ちは、 嘉朗を苦しめていることに気付かされ、やっとの思いで
『喧嘩の出来る親子』になれたのです。思いっきり喧嘩もし、怒りもしました。
隣のベッドのお友達に『なんでよっくんままはそんなに怖いの?』と聞かれることなんてしょっちゅうでした。

嘉朗がいなくなって7年。長いようでまだまだ短い7年です。
その間私はやっぱり嘉朗への懺悔の気持ち、罪悪感だけで生きてきました。生き地獄のような毎日でした。
それを救ってくださったのは、嘉朗が大好きな『学校の先生とその学生の皆さん』です。
藤井先生には、今でも私はとても教わることが多いです。辛い時に、逃げ出したい時にいつも救い出してくださいました。
そして、学生の皆さんに嘉朗の12年間を伝えてくださる機会を作ってくださいましたことには、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
講義の内容や、皆さんから頂いた感想文の内容から、嘉朗の人生は短くとも太く、たくさんの人を愛し、
愛されていたことを改めて教えていただいたような気がします。そのことにやっと気付けた自分がいます。

卒業文集にも嘉朗が書いていますが、学校生活がどれだけ楽しく、生きがいだったのか、
親元を離れ心配していたのは親だけであり、本人は怖いもの知らずにお友達の中に溶け込んでいきました。
最初の朝礼の時に、嘉朗の担任の先生が全校児童に向けて『嘉朗のすべて』を長い時間をかけて話してくださいました。
それが、本当に1年生から6年生までのお友達に浸透し、いつも声をかけてもらい、助けてもらいました。
嘉朗は登下校ともに送迎が必要でしたが、あるときから、上級生のお兄さんが交代交代で、おんぶして送って下さることがありました。
『みんなと一緒に帰りたいやろ?しんどなったらおんぶしたるから歩いて帰ろ。』と手を差し伸べてくださったのです。
反対方向のお兄さんもいました。自分のランドセルは学校においたままで、嘉朗のランドセルを背負い、嘉朗をおんぶしたり、
抱っこしたりして送ってくださいました。学校の体制が、全て『嘉朗を中心に』でした。
先生方のご尽力があってのことだと思っております。
この感謝の気持ちはいまだに薄れることがありません。

嘉朗は見た目に障がいがあるわけではありません。本当にやんちゃ坊主、くそがきなのです。
ですので、理解していただくのにいろんな場面でぶつかることもありました。
車椅子の乗っていることを指差され、マスクをしていることに違和感をもたれたこともあります。
内部疾患を抱えておられる方は、多かれ少なかれそういった経験をお持ちだと思います。今は、学習障がいの子供さんも増えています。
嘉朗の弟の学年でも数人いらっしゃいます。どうか頭ごなしにしからずに同じ目線で見てあげて欲しいと思います。

  小学校入学は子供も親もが夢見て楽しみにしています。
子供の一番の成長期を親とではなく、小学校でお友達と、先生と一緒過ごす時間の方が長いのです。
小学校の先生との出逢い次第で、子供の人生が変わっていくと言っても過言ではないと思っています。
この講義を受けられ、嘉朗と触れ合ってくださったことを感謝させていただくと共に、
嘉朗という子供が、学校がとても大好きで、毎日楽しみにしていたということをどうか頭の片隅にでも置いてやってください。

 そして、子供たちと素敵に、楽しく、優しい毎日を過ごしてくださる先生になってくださることを心からお願い申し上げます。
 最後に、槇原敬之さんから嘉朗に頂いた詩を添えさせていただきたいと思います。
嘉朗の手紙に感動し、病室や実家を何度も訪ねてくださり、本当に、歌詞そのものの温かいお人柄の槇原さんです。
  長々と、本当にどうもありがとうございました。

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2013/12/29update