大阪教育大での、お母さんのお話紹介
100万回の笑顔
2012年 大阪教育大でyoshiの話を紹介される機会をいただきました。その時の原稿です。
このたびは、藤井先生に嘉朗の話をしていただく機会をくださりありがとうございました。
嘉朗はたくさんの血液難病に侵されていました。だけども一見普通のやんちゃ坊主に見えます。
現にとてもやんちゃな子どもです。小学校に入学にあたり、何度も教育委員会と校長先生と打ち合わせを行いました。
『どこまでをフォローすればいいのかわからない』それが学校からの意見でした。
親のほうからのお願い事、主治医を交えての打ち合わせ。親のお願い事はひとつでした。
『健常の子どもさんと一緒のように扱ってください。怒るときはしっかりと怒ってください。甘えさせないでください。
歩行や体温調節等はお世話になりますが、それ以外のことはしっかりと叱りしっかりと愛してやってください。それだけが親の願いです。」
これをきいて校長先生初め先生方は『なんていう親なんや・・・』と驚かれたそうですが、
実際の嘉朗を指導していく上で怒ることは日に日に増えていていると担任からお聞きし、うれしく思いました。
たった一人の嘉朗が小学校に入学するということでとてもたくさんの方にお力添えを頂き、
「学校に行きたい」という嘉朗の願いを叶えていただきました。
担任の先生を決めていただくにあたって、住居地の教育委員会から適任だとおっしゃる先生がわざわざ嘉朗のために赴任してくださいました。
そして、住居地では制度化されていなかった補助の先生にもついていただきました。
嘉朗は肺が悪いので歩くとチアノーゼが出ます。
廊下はすべて先生がおんぶして移動してもらいました。
お手洗いは、嘉朗専用の洋式トイレを設置してくださり、便座カバーは担任の先生が毎日交換してくださいました。
遠足も保護者同伴です。週一回の受診日も、ぎりぎりまで学校に行き、学校から病院へ行くのが嘉朗のスタイルになっていました。
感染にはとても気を配っていただき、感染病が出ると、すぐに連絡が入り、
嘉朗は病院で免疫グロブリンという、血液製剤の感染予防薬を点滴します。
学校には行きたいが、病院にも行かないといけない嘉朗はすぐに病院をサボる計画を立てたのです。
主治医にお願いして週一の点滴を2週に一度、二本すると言うことを約束しました。
主治医は困った顔をしながら、学校が終わってから救急外来で点滴しよか?と 嘉朗の学校生活を優先してくださいました。
というのは、血液難病の子どもは学校を休むことがどうしても多くなるので行きたがらない子どもが多いのです。
勉強について行けない、お友達関係うがうまくいかない・・・親の会での話題にもいつも上がります。
『嘉朗は何でそんなに学校が楽しいねん?』と主治医に尋ねられました。
『友達たくさんおるし、俺クラス一番の天才やからや〜』と平然と答えては主治医を呆れさせていました。
親ばかではありますが、嘉朗はお勉強の好きな子どもです。わからないところは徹底的にわかるまで粘ります。
3人兄弟ですが一番回転が速いです。
嘉朗の悪知恵と、機転の速さは、きっと、兄弟一、学校一だと思います。
夏の学校生活には、 嘉朗用の扇風機、冷蔵庫を準備してくださいました。体温調節がうまくできないからです。
そして、農薬アレルギーを持ってましたので、給食が食べられずお弁当持参でした。
夏場のお弁当を入れるために冷蔵庫を用意していただけたのです。
本来ならば、予算は前年度に申請しないといけないのですが、嘉朗に何が必要なのかということは入学をしてみないとわからないので、
校長先生初め主事の先生には本当にご迷惑をおかけしました。
2学期の運動会には、放送係という大役を毎年頂き、生き生きとした嘉朗がいました。
余計なことまでマイクで叫び、観覧席を和ませてくれることもありました。
そんな中、 嘉朗と一緒に出きる種目をしたいと言う意見がお友達の中からでてきて、念願の運動会デビューは大玉ころがしでした。
応援団の旗振り、綱引きの審判がかり、嘉朗ができる仕事を次から次へと考えてくださったのは学校に関わるすべての人でした。
保護者の方の理解を得てくださった先生方には本当に感謝の気持ちしかありません。
しかし年齢を重ねていくうちに、徐々に病状も悪化し始め、入院することが多くなりました。
大阪では治療法はなく、東京へと進出したのは嘉朗が4年生の運動会を終えた頃です。
治験であり、実験台であることを嘉朗本人が承知した上での治療が始まりました。
辛い治療ではありましたが、毎週届く、クラスからのビデオレターをとても楽しみにしていました。
また、嘉朗も『よっくん通信』を発行し、大阪へ自分の状態を知らせる新聞を作り始めました。
嘉朗に、『書く』ということを教えたのは、私がまだ結婚前に一時期たくさんのお手紙に救われた時期があったからです。
『手紙や文章を書ける男はカッコエエねんで』といってみたら、ほいっと書き始めました。単純です。
とうとう、治療の甲斐もなく、悪化が認められ、臍帯血バンクからの骨髄移植を行うことになりました。
成功はしたのですが、合併症に苦しめられました。
そんなときは、院内学級の先生が個室に訪問してくださり、嘉朗のペースに合わせての授業が行われました。
負けず嫌いの嘉朗は、とにかく前へ前へと進みたがり、また、何故か兄弟一の優秀さがありました。
40度を超える発熱も何ヶ月も続きましたが、
院内学級の時間にあわせて解熱剤を使い、お休みすることは一度もありませんでした。
ドクターストップがかかると、ドクターに苦情をいれます。聞き入れていただけないと、教授に苦情を入れるような子どもです。
当時、インターネットや携帯電話は院内禁止だったのですが、嘉朗は『僕には必要です』と教授に直訴しました。
その訴えは、倫理委員会にも及び、嘉朗の意見としての手紙が読み交わされました。
そして、許可を取った嘉朗は、大阪のお友達とのネット上での遊びが楽しくて仕方なかったようです。
大変な病状はよくはならず、ついには『モルヒネ』以上の効果のある鎮静剤に頼らなくてはならなくなりました。
しかもそれは嘉朗本人が自分の痛みと向き合って自分でボタンを押して注入するものでした。
6年生の嘉朗には過酷な日々でした。朦朧とする日もありましたが、それでも院内学級は休みません。
休んでくれるようにと私が泣いてお願いしたことがあります。すると嘉朗は決まって言います。
『ママが優しいのは病気が悪くなってるときや。怒ってるままのときは安心できるときや。だから怒ってくれるママが好きやねん』
・・・これは病院中を驚かせた発言でした。恥ずかしかったです。
最後の検査の日、この検査が終わって年を越したら大阪へ帰れるまでに回復していました。
しかし、生まれて初めて検査を拒否したのです。『受けたくない・・・』と。
『頑張ったらガンダムのプラモデルだしたるし、大阪にも帰れるしがんばっといで』
そういって嘉朗を送り出しました。
『行ってきます。』笑顔の嘉朗が検査室に入っていきました。
そして・・・2時間後。『血圧が測れません。』との連絡が来ました。
次には『心臓が止まりました』・・・。
嘉朗に逢えたのは、検査に行かせてから8時間後でした。たくさんの管につながれ、蒼白な嘉朗はもうやんちゃ坊主ではなくなっていました。
2日間ICUで頑張り続け、12月29日にお空へ帰っていきました。
東京からレンタカーを借りて2人交代で大阪まで帰ってきたのは30日の未明でした。無我夢中で運転したことしか覚えていません。
すぐに、お友達、先生方がかけつけてくださり、にぎやかが大好きだった嘉朗の周りは最後までにぎやかです。
だんじりばやしがかかった中でのお通や。入り口には嘉朗の写真展。長女が書いた『涙厳禁』、『笑顔歓迎』の張り紙。
12月30日がお通や、31日がお葬式・・・。嘉朗らしい日にちの選び方です。絶対に誰もが忘れられない日にちを選んだのだと思っています。
500人を超える人が連日弔問に来てくださいました。東京からも名古屋からもたくさんの人が来てくださいました。
親友君の弔辞や校長先生の声かけ、全クラスの生徒さんの嘉朗とのよびかけ・・・。
大好きな学校のお友達に囲まれていました。
お骨あげのとき私は意識を失ってしまったのですが、後で聞いた話ではたくさんのお友達が丁寧に丁寧に拾い上げてくださったようです。
今、嘉朗のお友達は19歳です。お墓に行けばタバコを供えてくれているお友達がいます。
家に行くと、ないてしまうからと毎月お墓で集合してくれているお友達がいます。
本当にお友達に恵まれた嘉朗です。その陰では先生方のご尽力があってのことだと感謝の気持ちでいっぱいです。
小学6年生で同級生の嘉朗をいなくしてしまったお友達。
中学生になっても高校生になっても『嘉朗、一緒にいくんやで』と声をかけてくれます。
浪人中の親友君は、『嘉朗の頑張りを知ってるから負けられへん。
絶対に頑張りとおす』と毎年お盆に顔を見せてくれては嘉朗の話をしてくれます。
初めての集団生活での第一歩。そのときの担任の先生が嘉朗を学校中に広めてくださり、知ってもらうことができました。
マスクをつけてのスタイルにいじめは出ないかと心配もありましたが、嘉朗は負けていません。
『マスク付けへんかったら学校来られへんねんもん。何が悪いねん・・・』と言い返したこともあります。
嘉朗がいなくなって8年目になります。やっと、この秋に学校に足を運べるようになりました。
そうすると、先生方がとても暖かく迎えてくださったのです。
驚きました。嘉朗を知ってくださっている先生は半分しかいらっしゃらないのに、
どの先生も『お母さん、やっと来れたね』と声をかけてくださいます。
嘉朗はいつも大好きな学校にいてるのです。嘉朗の教室をのぞくと笑顔の嘉朗が見えました。
初めてサッカーボールをけらしてもらった運動場の隅には嘉朗が笑っています。
藤井先生のご好意から、たくさんの方に嘉朗を知っていただく機会をいただきました。
感謝しております。そして感想文も読ませていただきました。
暖かい文字で暖かい文章を読ませていただき涙が止まらなくなりました。ありがとうございます。
嘉朗の場合は検査室へ「いってらっしゃい」と送り出しました。そして嘉朗は帰ってきませんでした。
嘉朗には弟がいますが、毎朝『行ってらっしゃい』と送り出しますが、『ただいま』と帰って来るまで心配なことも多いです。
弟については喧嘩や怪我なのですが、下校時、16時ごろに小学校からかかってくる電話には毎回おびえます。
私の第一声は『また何かしでかしましたか?』です。絶対に『怪我しましたか?』ではなく『何をしでかしたのでしょうか・・』なのです。
それほど元気でたくましい弟も嘉朗の年に並び、もうすぐ卒業します。
嘉朗がしたかった運動会の組み立てたいそう、行きたかった修学旅行。出れなかった卒業式。
弟が『兄ちゃんも分も一緒に』といいながらやってくれます。
それをいまだに受け入れてくださる学校の体制にも本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
この講義を受けておられるかたは、小学校の先生になられるかただとお聞きしています。
初めの第一歩で、たくさんの将来が決まっていくのが小学校なのだと思っています。
嘉朗のクラスのお友達は「中学でも高校でも思いやりのある子どもだといわれるねん。
よっくんのおかげやねん」って言いに来てくれます。とてもうれしいことです。
どうか、遠い未来に向けての第一歩を踏み出す場所で先生方と素敵な出会いがある子どもたちが増えてくれるとうれしいなと思っています。
そんな風に関わってくださる先生が一人でも多くいてくださるとうれしく思います。
嘉朗との12年はまだ思い出すことのほうが多くて向き合うことができません。
でも嘉朗はお空からもいろんなメッセージを投げかけてきます。
そのひとつが、来春発行予定の嘉朗のポエム詩集です。
なぜか、自分が納骨されるお寺の住職さん(天王寺区にある一心寺さんです)が『僕が出資者になるので作ってください。
全国に広めましょう』とおっしゃってくださったのです。
ラジオで嘉朗のポエムを聞いてからずっと気になっていたとおっしゃってくださいました。
難病の子どもの夢を叶える『メイクアウィッシュ』さんのおかげで現実に向けて着々と進んでいます。
大阪が大好きで吉本が大好きな嘉朗です。大阪の空から『ママ、しっかりせえや』と叫んでることでしょう。
こんな機会がなければ嘉朗の話は私の中で封印されたままでした。
伝えてくださる機会を作ってくださった藤井先生にも感謝の気持ちでいっぱいです。どうもありがとうございました。
藤井先生がつけてくださっている鈴と、直筆のポエムが手元にあります。
もし、もってみたいと思ってくださる方がいてくださいましたら、藤井先生にお聞きになってください。お届けさせていただきます。
本当にどうもありがとうございました。
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2013/12/29update