100万回の笑顔

 長男嘉朗は、12年間の闘病を終え、2005年12月29日、天使になりました。
過酷な最期2年間に書き残した詩です。

はじめに
   長男、嘉朗は1994年10月14日に大きな元気な産声を上げました。
2人目という余裕もあって、あまり神経質にもならずにいました。
それが・・・ミルクは吐くし、高熱を出す、しもやけになる・・・娘のときとはぜんぜん違う。
おかしい。一ヶ月検診に来てくださった助産婦さんも何かおかしいとおっしゃり、
ホームドクターに紹介状を書いてもらって大学病院へ向かいました。

初めての入院は、高熱が下がらず、肝機能が4桁の数値に上がり緊急入院。でも大学病院が満床。
果てしなく遠い病院まで電車とバスで移動・・・本当に無知な親でした。
救急車を依頼するとか、タクシーで行くとかという知恵がまったくなく、「ただの風邪」のような扱いで移動してしまいました。
そしてその病院でも、何の知識もないままに嘉朗はいろんな検査を受けました。
無知とは怖いものです。嘉朗の状況をまったく把握できていませんでした。ガレージのような殺風景の個室。
保育器に入れられた嘉朗。テレビも何もない隔離された病室。私が精神的にギブアップしてしまいそうでした。

その後、大学病院に再入院しました。鼻水で両鼻が詰まってしまい息苦しい嘉朗。
口の中、お尻には「カビ」に感染し、痛くて泣いてばかりの嘉朗。ほっぺたはSLE状の蝶形発疹。
全身に発疹ができることもしょっちゅうでした。春になって5月には熱も落ち着き結局、原因不明のまま退院しました。
それからなぜか大学病院には毎年9月から翌年5月にかけて入院することになりました。前脳に石灰化があるということ。
肺に影があり治まらないこと。でも治療法はわからない・・・

とうとう1歳2月のときに「肺の生検」を受けることになりました。当日も熱があり、CRPも8を超えていました。
不安がる私たちに 
「今しないと『年明けになるから』」そんないい加減な理由で決行された検査。左の胸には大きな大きな傷あとが残りました。
検査の結果、「リンパ性間質性肺炎」。乳幼児ではまず無い病気。
とりあえず同じ病気で成人が受ける治療「ステロイド大量療法」を試すことになりました。
そのせいで嘉朗の男前の顔は「ムーンフェース」に変貌。食欲も増えました。
大量療法の次はステロイドの服用です。
「お母さん、これ舐めてみてください。これからよっくんが飲むお薬です」とステロイドの粉薬を味見しました。ものすごく苦い!!!
どうやって飲まそうか・・・ゼリーに混ぜてみても食べれない。そんな時、私は自分が強気でよかったと思います。
「先生、そのまま飲ませましょう」そう言い嘉朗ののど奥にお薬を置きました。
するとなんと「つるん」と飲んでくれたではないですか!!!そんなだましだましの治療を続けました。

10月のお誕生日はいつも入院。病院でのお誕生日会が当たり前になってしまっていました。 
いつまでたっても同じ病状を繰り返し、呼吸回数が60を超え唇が紫色(チアノーゼ)になり、緊急入院が当たり前になっていました。
 そんな時、患者会「つばさの会」に出会い、たくさんのことを学び勉強しました。
そして主治医にたくさんの疑問をなげかけました。「素人の親に何ができるんですか!!!余計な口出しは無用です」
       これが3年間お世話になった主治医の言葉でした。   
 このとき私は、悪性腫瘍におかさされ、嘉朗とは違う病院で手術の予定があったのですが、思い切って嘉朗も転院しました。
親の勝手で転院するのだからと何のデータも持たせていただけませんでした。                 

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