第7回ロゴセラピスト講演会(2014年8月30日;日本ロゴセラピスト協会主催)に参加して

はじめの言葉 勝田茅生会長
この講演会も7回目になる。初めの時は日本にロゴセラピーが根付くのか不安を抱えていたが、少しずつロゴセラピー、フランクルが知られて来た。
先日行われた心理臨床学会で4人の先生でロゴセラピーのシンポジウムを開催してとても盛況だった。
ロゴゼミから育った人が自分の才能を生かして、自分なりに生かして行かれる姿を感じ感激した。セラピストだけでなく、いろいろな分野で活用されている。
ある方は教育の場で、人に言葉を伝えて行く話の中で、友達の中で、医療関係の中で、ロゴセラピーの生かし方がある。
皆さんがそれぞれにやっておられるのが、私の大きな喜びである。育てた苗が大きな木になっているのを見るのは感激。 今回も、何回もゼミに関わっている人が発表する。良い話をして貰えると思う。

「一期一会の電話相談に活かすロゴセラピー」中瀬真弓氏(京都いのちの電話事務局長)
事務局で働いている。夜と霧を読んだ。10年前夫が亡くなったことがきっかけで、このゼミを受けた。
眼差しが他者に向けられるかなと思える今、発表の場をいただいた。
今は相談員の育成に関わっている。いのちの電話では専門家でない人が関わっている。
私自身が電話での体験でロゴセラピーが生かされた体験を紹介したい。

いのちの電話の最初の紹介;
英国のチャドラー氏、心の痛みに共感する。サマリタンズが始まり10年後にオーストラリアのライフラインの関係でスタートした。
京都いのちの電話に関わっている。京都いのちの電話の受信件数24,000件/年。絶え間なくかかって来る。
多いのが保健医療の33%。全体の63%が精神的な悩み。次に多いのが人生13%。
生きていても仕方がない。生きる意味が見えない。ただただ虚しい。ネックカットしている人もいた。
若い時にリストカットしてきた。最近気になるのは、40代の男性の空虚感。無職、親のお金で生活。社会を恨み、自分を恨んでいる。

・言葉(と音だけ)による交流
・匿名性;名前を出さないことで自己開示ができるとも言われている。
・相談の無構造性
・唐突性
・かけ手優位性

友達に迷惑かけられないとのことで電話して来られた人も。人の声に接してほっとした。いたずら電話もある。
受話器を取ると人が現れ、切ると消えてしまう。相手のリズムに合わせる。話しやすい環境を作る。信頼関係を築けずに終わることもある。
さよならも無く切れることもある。いつ切れてもよいように心掛ける。相談員の興味で相手の人生を暴くことはしてはいけない。
それは、あなたの成育歴に関係しているなどと話すと突然切れて、後に大きな問題を相手に与えることもある。
受容や共感が大切なのは皆知っている。永遠と続く受容はその人をその状況にずっと閉じ込めてしまうようにも感じる。
電話には頻回者が多い。一期一会になるが、その時間を共有する。周りに人がいても人を感じることができない人がいる。
電話で人を感じることがある。あやふやな葛藤を抱えながら、ありのままの私として短い一瞬の時を共有する。

「何でも聴いてくれる」のは無言の神だけだと思う。
電話が繋がった時から、何でも聴ける自分ではないので、一緒に共有できる場所を探す、"のりしろ(人や組織が柔軟に融通を利かせることのできる範囲のたとえ。
遊び。ゆとり)"探しをする。生活を共にしているパートナーとの間にものりしろが必要かもしれない。
のりしろなんてないと言っていた方の電話で嫌悪感、吐き気を感じそれを伝えたら、それから話ができのりしろを感じた。
その人は怖い声でなく普通の声になって、二人でその人のこれからを考えることができた。

心と身体は自分を守る。精神は自分を守らない。精神次元は生まれながらに持っている。健康で病気になることはない。 生まれながらに備わっている崇高で気高い次元。(ロゴセラピー9のゲーテの言葉)、その人のあるべき姿を思い描きながら話すとそこに向かっていく。
真の受容はそのまま受け入れるのではなく、その方のあるべき姿を思いながら話すことでは。そのことをその方に伝えると、その人が気が付くことがある。
受容だけだとそこには辿り着かない。

長い電話が終わって良かったと思ってしまう。「自分の感情を距離をおいて見る」ことを自己距離化と言う。
寄り添えたかは数値でわからないが、自分の発する言葉が相手の言葉のように感じることもある。だらだら聴いているとそのチャンスを失う。
どのような態度を取って行くか自由に選ぶことができる。共に悲しみ嘆くことができる。

自己距離化ができると視線が自分に向いていたのが他者に目を向けられるようになる。それを自己超越化と言う。一歩踏み出すこと。
電話相談は信頼関係によって成り立っている。相談員でなく、事務局として話をしている。

いのちの電話の実際の内容は話せないので、それ以外の電話相談の体験を紹介する。内容は変えている。

長く心と身体の障害で、周りの世話を受けてしか暮らせない。惨めな気持ちを持っている。話を聴いていると同じ場所にいるように感じた。
それが見えてきた時、傾聴を止めた。一言を伝えた。やりたいことを伝えた。できない惨めな私。その方はそれからすぐに切れたが。
その後、その方から報告があった。自分にできたことで周りに喜んでもらえることがあることに気付いた。あるべき姿が実現できた。
大きな荷物を抱えているのでまた落ち込むことがあるかもしれないが、その喜びが生きてくる。

DV夫から支援者の手で夫から逃げて来たが、今は暴力の夫の元に戻る方がよいと思うようになった。
私のひと言で、その人が自分のあるべき姿に気付き、それに目が向くようになった。
自分の見ていた景色を見ながら話すと、その人も同じ景色を見るように感じることがある。
その人の人生の意味を見出す。寄り添う私に、つられて気づくことがある。
ただ、いのちの電話ではその後がわからないので相談員のモチベーションにはなかなか繋がらない。

状況の意味に応える。電話線が繋がっている時を生かす。漫然と聴いていてはいけない。
しっかり聴く時が、眺める時がある。電話相談の中で言語化してみた。
傾聴するには?と尋ねられると、"自分の執着を棄てる"と答えている。相談員に必要な自己超越なのではないかと思う。
ここまで歩んで来られたのはロゴセラピーを学んで来た仲間の支えがあったから。友人は病室の中から私の発表を見守ってくれている。
苦い経験もあった。閉じこもらない生き方を選びたいと思う。


「町のクリニックの臨床とロゴセラピー」新田幸代氏(クリニック保健師)
こういう機会はあまりないが、怖ろしいことなのだが引き受けた。町医者のクリニックで働いている。
町医者はNHKの差別用語だと言われているが、町の中に存在する意味もあり、私はこの言葉をつかっている。
地域の人々とのコミュニケーションの中にある医院。何でこんな病気になったのだと言う人が多くいる。
フランクルは「それは問いが間違っている」と言っている。その病気で何をするのか?が問われている。

30代Aさん。38℃の熱。インフルエンザ。Aさんは医者から説明されて抗インフルエンザの治療を受けた。
70歳Bさん、夜中に背中が痛いで救急車で。狭心症とのことで大学病院を紹介した。
しかしBさんはスタント治療をするかと言われ、怖いので受けないと判断した。
心身態は身を守り、生命を守る。精神は精神の反抗力・自己超越。Aさん、Bさんは早く楽になりたい。
この風邪が人生のどんな意味を問いかけてくるかと考えることはない。
医者は何故治療を受けなかったのかわからないとBさんに伝えた。Bさんの奥さんが脳梗塞を患っていることや娘がいる状況を知っていた。
Bさんが倒れたら家族はどうしたらよいのか。家族のために元気でいたい。それで恐いけれど治療を受ける判断をした。
外来場面での医療者の役割と責任。医者は患者によい治療を提示する。患者はどうするかを判断する。自分に起きた病気をしっかり受け止める必要がある。

Cさん、坂道を歩くと胸が苦しくなる。専門病院の受診を勧めた。Cさんはカテーテル検査を断ったとしてクリニックに来た。
よく確認したら、よくわからなかったでまた来ますと言った。
インフォームドコンセントと言われてから長く経つが、まだまだ十分理解される説明がされていない。
医療者は医学的知識を持つが、目の前の患者さんと本気で関わらないといけない。患者さんと関わることで説明の責任を果たす。
患者にも医療者と本気で関わる必要がある。どんな選択したかではなく、どのように選択したか。
ロゴセラピーを受けてから、面倒だから、嫌だからの心身態での判断ではなく、精神レベルでの判断をしないといけない。

ただ、Cさんは説明を受け再度専門病院に受診したが、まだ目的がCさんには見つかっていない。
まだまだ医療現場で意味のある判断を支えるようにはなっていない。フランクルも治るだけに医療だけではいけない。
何のために治りたいかがないと行けないと言っている。外来看護師には意味に向かっているかを客観的に見られる立場にある。
医者は治療を受けさせることを目的にしている。患者さんが治療を受ける意味を感じているか。それをロゴセラピーを受けた私として、役割があると思う。

高血圧、難聴のDさん、耳鼻科受診を勧めたが、歳だし治らないと出て行った。
私は追いかけて「もう逢えなくなるの?諦めてしまうことが悲しい」と話しかけた。
Dさんはその後、耳鼻科に行って耳垂れが亡くなった。補聴器を付けることにした。
障害者手帳を取ることを考えていると。Dさんが「看護師さんのおかげだよ」と言ってくれた。
Dさんに事例発表の許可を話したら、「皆がものごとを諦めないとよいね」と承諾してくれた。
患者さん自身が自己超越する瞬間に係ることができる。
「今まで、私たちは患者を一人の人間としてみてきただろうか?意味というものを絶えず探し求める存在として、患者をみてきたのだろうか?」
  生きる意味を求めて、ロゴセラピーを学ぶまでは、一人の人して見てこなかったように思う。

セラピーと付いているから専門のことを言っているように思うが、「人と人が出会う」が基本にあるように思う。
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