「吉野弘詩集」 清水哲男編解説 山田太一エッセイ "愛が遙かに遠のいたあともざわめいている"
“夕焼け”
いつものことだが電車は満員だった。
そしていつものことだが
若者と娘が腰をおろしとしよりが立っていた。
つむいていた娘がたってとしよりに席をゆずった。
そそくさととしよりが座った。
礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。
娘は座った。
別のとしよりが娘の前に横あいから押されてきた。
娘はうつむいた。
しかしまた立って席をそのとしよりにゆずった。
としよりは次の駅で礼を言って降りた。
娘は座った。
二度あることは と言う通り別のとしよりが娘の前に押しだされた。
可哀そうに娘はうつむいてそして今度は席を立たなかった。
次の駅も次の駅も下唇をギュッと噛んで身体をこわばらせて−
僕は電車を降りた。
固くなってうつむいて娘はどこまで行ったろう。
やさしい心の持ち主はいつでもどこでもわれにもあらず受難者となる
何故ってやさしい心の持ち主は他人のつらさを自分のつらさのように感じるから
やさしい心に責められながら娘はどこまでゆけるだろう
下唇を噛んでつらい気持ちで美しい夕焼けもみないで
“愛そして風“
愛の疾風に吹かれたひとは愛が遙かに遠のいたあともざわめいている
揺れている 風に吹かれて 枯草がそよぐ
風が去れば 素直に静まる
ひとだけが 過ぎた昔の 愛の疾風に いくたびとなく 吹かれざわめき
歌いやめない −思い出を
ゆったり ゆたかに 光を浴びているほうがいい
健康で 風に吹かれながら 生きていることのなつかしさに ふと 胸が熱くなる
そんな日があってもいい そして なぜ胸が熱くなるのか 黙っていても
二人にわかるのであってほしい
“SCANDAL”
スキャンダルは キャンドルだと私は思う
人間は このキャンドルの灯て、しばし
闇のあちこちを見せてもらうのだと私は思う。
みんな 自分の住んでいる闇を
自分の抱えている闇を 見たがっているのだが
自分ではスキャンダルを灯すことができないので
他人のスキャンダルで、しみじみ
ひとさまの闇を覗くのだと私は思う
自分の闇とおんなじだわナ、と