仕事を休んでうつ地獄に行ってきた
●主 催 社会福祉法人 千葉いのちの電話
●講 師 丸岡いずみ氏 ニュース・キャスター
●日 時 2014年3月16日(日)
「仕事を休んでうつ地獄に行ってきた」丸岡いずみ著
うつを乗り越えた私の体験を話したいと思います。
どうしてうつ病になったかと言うと、2011年3月11日の大震災が一番のきっかけでした。
2時46分でミヤネヤの番組にでるためちょうど衣装を着替えしようとしている時でした。
小さな部屋で外からも丸岡を助けないとの声が聞こえました。
有名な人が亡くなった時は黒い服を着ることが慣例になっていましたので、黒い服に直ぐに着替えました。
6Fから降りようとしたら、日本テレビの壁が落ちて、防火扉が自動的に閉まる寸前にすり抜けて、5Fのミヤネ屋のスタジオに行くことができました。
その後、帰宅困難者を新橋まで中継に行ってほしいと言われ、深夜2時まで路上で中継しました。
その次に、東北に向かって欲しいと言われ、
いつ帰れるかわからないので家にいったん帰ってしばらく現地に留まれるように用意して行ってくれと言われました。
日本海側からでもよいからと言われ、10時間かけて陸前高田に着きました。着くと、まだ自衛隊などが機能していない状況でした。
悲惨な光景で、がれきの中を流れ着いたご遺体が至る所にありました。
警視庁の捜査一課を担当していたことがあったので、ご遺体を見たことがありましたが、震災のご遺体は水を含んでぱんぱんに膨れていました。
これは放送できる、できないを考えながらいました。次は自分たちが寝るところを探さなければならなかったのですが、それを探すのが大変でした。
内陸に100kmほど入ったところ、温泉旅館があり、その時は深夜でした。電気もガスも止まっていて、お布団だけなら貸せるということでした。
そこには日本テレビだけでなく、他のテレビ局の人も雑魚寝状態でした。
疲れていたのですが、うとうとすると昼間の残像が目に浮かび寝られなかったです。身体を横たえるだけでした。そういう取材が2週間続きました。
食べ物も地元の人を優先することで、水だけは確保しならが、ふらふらの状態でした。
そんな時、あるご家族に出会いました。密着取材をさせていただきました。
着の身着のまま逃げて来たので、子供は靴下も履いていませんでした。
カメラマンが自分の靴下を脱いで渡したりしました。これまで経験した地震とは比較にならない惨劇でした。
海外のマスコミも同じ旅館に集まって来ました。海外のマスコミは「福島は大丈夫か?」と質問して行きました。
ベルギーの特派員でしたが、福島がどうなっているか知りたい。福島が大変なら帰国したいと思っていると言われました。
それだけ現地はパニックっていました。目に見えないものと闘いながら、私も線量計を身に付けながら、
伝えられるものと伝えられないものを選別しながら、しかし私自身の能力を超えている状況でやっていました。
その後、東京に戻り、時々また取材に行くようにしていました。行くと一週間くらい行っていました。
その後、上司からロイヤルウエディングの取材に行ってほしいと言われ行きました。震災のことを考慮しながら伝えて欲しいと言われました。
ロンドンに行くと、多くのマスコミがいてにぎやかでした。各マスコミにブースが当てはめられていて、記者も明るいドレスぽいものを着ていました。
私は明るいと問題もあり、落ち着いた服を選んで着ました。
自衛隊の艦船に乗って行方不明者を探すので4日同乗取材をしました。
ご遺体が上がって来るので、心して当たる必要がありました。
ディレクターとカメラマンと計4人で行きました。4人に一部屋が与えられえました。
艦船には女性用がなく、女性のディレクターだったので二人で二段ベットに寝ました。
ゴムボートに乗りながら、竹やりでつつきながらご遺体を探しました。私はそれをレポートしなければなりません。
自分はそれをどう伝えるか。艦船の方が、事前にどのようにご遺体があがるかの事前にレクチャーをしてくらましたが、
実際に上がって来たご遺体は、皮膚が剥がれている状態で、天使が羽衣をまとっているような状況でした。
7月を過ぎた辺りから、眠りが何となく浅い状況が出て来ました。
私はロケバスでもすぐに寝れるタイプでした。
食事も何でも食べられる人間でした。食欲が何となく落ちて行きました。
のど越しのよいうどんを少し食べるとか、とんかつみたいの物は食べたくなくなっていました。
震災取材やロンドンや、艦船取材もあったから、疲れているのかなと思っていました。ニュース7で原稿読んだりしていました。
8月21日は24時間テレビの日で休みを貰っていました。
夫になる映画監督の有村崑と逢おうかと言って箱根に行ったが、食が細くなっていました。
報道キャスターとして責任感だけでやっていました。
21日から寝られなくなってきました。
8月29日に民主党の代表選挙があり、民主党の党大会を取材に行ってくれと言われ行っていたが、言葉がとぎれとぎれになってしまっていました。
真夏なのに身体がとても寒くて、カイロを貼って仕事をしていました。自律神経失調症になっていたようです。
取材後は日本テレビに戻って放送しないといけないのですが。普段は原稿にはルビをふらないのですが、
その時は山とか川とか簡単な漢字も読める自信がなくなっていて、ルビをふり何とか報道を終えました。
これはもう無理だ。ここでお休みを貰わないと大変なことになると思いました。その判断能力だけはまだありました。
大学院で心理学を学んでいたので、うつに対しては一般の人よりは知識がありましたが、うつの言葉が浮かんでいませんでした。
上司と会議室に行き、「私はもうだめなんです。休ませてください」と言ったら、
上司は「今日のオンウエア―も問題なかったけど、何がダメなの」。
「21日から一睡もできていません。ニュース原稿もルビを振らないと読めません」。それまでほとんど休みも取っていませんでした。
そんな丸岡がそこまで言うなら大変だと理解してくれ、直ぐに休みなさいと、社会的には夏休みを取りますと言ってくれました。
上司が受け入れてくれなかったら、画面でしどろもどろになって、大変な間違いを犯していたと思いました。上司には今でも感謝しています。
トランク一つ持って実家に帰りました。
自分一人で東京にいたら、自殺してしまうのではないかとのセンサーが働いていて、
家族が見守っているところに行こうと思いました。飛行機に乗ったら、狭いところに閉じ込められている感覚に襲われました。
空港に両親が迎えに来てくれました。両親も私を見て、化粧もしてなく、髪もむちゃくちゃでしたので驚いていました。
一週間では戻れないだろうと思っていました。その通りになりましたが。
その前に東京で医者に行ったら、自律神経失調症と診断されていました。
それで精神科に行こうと思って行きました。そこでもうつ病とは言われずに、適応障害と言われました。
医療団の中にも私のような状況になった人もいるので当然だと言われました。
実家にいても眠れるわけでもなく、食欲もでてくるわけでもなく、一週間とのことだったので焦りも出て来ました。
精神科の先生は一週間ではよくならない、月単位で休養を取らないといけないと言われました。
週刊誌やスポーツ紙が1か月すると嗅ぎ始めました。一週間の休みだと言っていたので1か月が経過している。
何かおかしいと思ったようです。実家に多くの記者が私の行動を尾行するようになりました。
通院している写真も取られ掲載され、丸岡いずみ謎の長期休暇と記事になりました。
そうすると知り合いや友達から、「どうしたの?」と言われるのだが、それもすごく負担になって来ました。
記者が父の車のNoを知りつけたりしました。いとこが内科医をしていたので、そこに一室を借り、そこから精神科医に通いました。
なかなかよくなりませんでした。そうしていると、精神科医から「うつです」と言われ薬をだされました。
それまでほとんど薬を飲んでいなかったので、薬に対して不安がありました。
それを飲むと人格が変わってしまうのではないかと不安を持っていました。大学院で学んだ認知行動療法で治して行こうと思いました。
認知行動療法は、Aさんに「おはよう」と言ったら無視して通り過ぎてしまった。
その時にどう解釈するか、Aさんは私に気が付かなかっただけだと思うか、それとも私を無視しているかどう考えるか。
認知行動療法を学んでいたので、それ治せばよいと思いと思いました。それで薬は飲みませんでした。
私のうつはそれで治ると思っていましたが、それは大きな間違いでした。
認知行動療法はうつの予防には効果がありますが、うつの真っ最中には効きません。
過感性になり、テレビの音が太鼓の音を叩いているように聞こえるようになりました。被害妄想にもなりました。
母が食事にヒ素を盛っているように思いました。ヒ素の取材をしていたので、自分の症状がヒ素中毒に似ていると思っていました。
過呼吸のような症状が出て、親に病院に連れて行かれ入院しました。精神科では看護師の前で薬を飲まないといけないので、
薬を飲みだすと一週間くらいでお腹が鳴りだしたりして食欲が出て、また寝られるようになりました。
うつ病の薬は薬とのマッチングが必要ですが、私の場合は薬がよく効いて二週間くらいで退院できました。
薬を言われた通りきちんと飲むことが大切です。患者の中には薬を飲んでいない人もいます。
周りにうつ病の方がいらっしゃったら、ぜひそれを伝えて欲しいです。
うつ病を予防するヒントをお話ししたいと思います。
・うつ病になる人はメンタル的に弱いとかの偏見がありますが、それは違います。
うつは10人に1人はかかる病です。
自分は違うと思うことをなくす。自分はうつにならないと思う考えを捨てる。
うつと上手く付き合う気持ちを持って欲しい。
・うつ病はこころの風邪と言われていますが、それは違います。風邪だと放って置いても治りますが、うつ病はひどくなってしまいます。
うつはこころの風邪は、誰でもなるものだと言いたかったのだと思います。
・うつは心の病気ではなく、脳の病気です。うつ病の薬はこころに効くのではなく、脳のホルモン(ドーパミン、セロトニン)に影響します。
乳がんになった人が放って置く人はないと思いますが、それと同じで治療が必要なんです。
・いとこの内科医が、「いずみちゃん、パーと北海道旅行でも行けばよいよ」と言っていましたが、
うつ病の時は旅行はよくないと言われています。旅行中に自殺している人もいます。
いとこの内科医でさえ誤解していましたから。映画とか買い物などで決して引っ張らないで欲しいです。
・寝られない/食べられないが2週間続いたなら、精神科、心療内科に通って欲しいです。
私は一人では抵抗があったので、父と一緒に精神科に行きました。精神疾患の時は先生と患者の相性がとても大切だと思います。
セカンドオピニオンを聞くことも必要です。精神科医の先生もそれで怒ることはないと思います。
もし怒るような先生であれば、そこまでの先生です。だれかが一緒に行ってくれると、その人が相性なども客観的に教えてくれます。
・薬は2週間は飲んでください。血中濃度が一定になるまでに時間がかかります。
・素直に話せる人を見つけておくことが大切です。本を読んでいる方はどのくらいいらっしゃいますか?
東京でお父さん、お母さんと呼んでいる人がいます。清掃局の取材後お付き合いをさせていただいています。
陸前高田のご家族ともその後電話など付き合いさせてもらっています。
清掃局のトラブルを取材したのですが、私と同じくらいの娘さんがいらっしゃいます。
その人には素直にうつの話をすることができます。逆に家族は近すぎて、心配をかけてはいけないと思います。
うつの時は希死念慮が出て来ます。希死念慮は家族に話すと心配します。
その人に希死念慮を話すと、どうしてそう思うのと淡々と聴いてくれます。
希死念慮はそういう症状が出ている時なんだ何と。びっくりすることではなく、自然に聞いて欲しいです。
・うつ病の人に「頑張って」を言ってよいのかどうかを問われました。
休んでいたら、陸前高田の方が心配して、寄せ書きに「頑張って」のことがあり、すごく嬉しかったです。使い方で良くも悪くもなります。
・父から「休むことも生きることの一つ」。その言葉はそれが心にストーンと心に入って来ました。
今休んでいることは、人生80年の一点。今振り返ると休むことはたいしたことではなかったと思います。
休むことも大切だと伝えて欲しいと思います。うつで苦しんでいる人の何かヒントにでもなれば幸いです。