本の紹介&感想

「戦争と検閲 −石川達三を読み直す−」 河原理子著 ”歴史から学ぶ”

石川達三氏が中国南京などを訪問した体験記から「生きている兵隊」を執筆し、中央公論で出版されました。
当時は、言論弾圧があり新聞も含め出版物は全て規制されていた。
たとえば中国娘を殺害する場面、弾丸にあたって瀕死となった母親を抱いて無く続ける娘を、日本兵たひははじめかわいそうに思いながら、
夜通し泣き続ける声に次第に苛立ってくる。ひとりの一等兵が銃剣を抱いて駆け出す。
「えい、えい、えいッ!」
まるで気が狂ったような癇高い叫びをあげながら平尾は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あたりを・・・・・・・・・・・・・・・・・。
他の兵も各々・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・まくった。ほとんど十秒と・・・・・・・・・・・・。
平たい一枚の  (空白の二文字は蒲団)のようになってくたくたと・・・・・・・・・・・・。
興奮したへのほてった顔に・・・・・・・・・・・・・・・・・・むっと暑く流れてきた。

と検閲で問題になるか所は伏字として出版された。ほかにも、日本兵が慰安所に繰り出す場面などに、空白がある。
それでも発刊禁止なった。しかし、伏字のものが一部で回った。そのため、石川達三は召喚され取り調べを受け、禁錮四カ月執行猶予三年の罪になった。
罪は
1)瀕死の母を抱いて泣き続ける中国娘を受験で殺害する場面
2)砂糖を盗んだ中国青年を銃弾で殺害する場面
3)前線は現地徴発主義でやっているという話と、兵士たちが「生肉の徴発」に出かける話
4)姑娘が「拳銃の弾丸と交換にくれた」という銀の指輪を笠原伍長らが見せる場面

これらを記述し安寧秩序を紊乱する事項を問題とした。

  作家は戦時にあって如何にあるべきか、戦える国の作家は以下にあるべきか。(石川達三)
友人たちは誰も弁護してくれなかったと、達三は戦後、くりかえし話している。
「筆禍を蒙りましたときにも、私の友人たちは誰一人として私のために弁護してくれる人もなかった、それは弁護することができなかったのであります。」

「生きている兵隊」事件を最初に取り調べた思想検事の井本台吉は戦後公職追放になったが、1967年検事総長になった。
二審を担当した八田卯一郎判事は静岡地家裁所長などを務め、定年後は国税不服審判所長となった。
組織を動かし制度を支え、法令を実行するのは、結局一人ひとりの人間なのだ。

敗戦のあと、菊池寛は「過去十数年に亘って、テロと弾圧とで、徐々に言論の力を奪われたのでは、一歩一歩無力になる外はなかったのである」と述懐している。
石川達三が講演で
一つは、検閲には長い道のりがあり、戦争になってからあわてても遅い、ということ。批判する自由を失っていたら、「自由を失っている」ということも言えなくなる
二つ目。新聞紙法は実に便利に使われてきたということ(政府の都合でどんな規制もできる法律だった)。
文筆家人生を振り返っている。 僅か10年に過ぎない私の文筆家としての生涯に若し意義ありとすれば、それは社会の不正に対する戦いであった。
しかし私の戦いは殆ど常に何の役にも立たない私の独り芝居に終わった。中略 
敵はアメリカではなくて日本の社会の中にかくれて居るのでははないか。

米軍が駐留し、日本の言論弾圧の法律は全て停止されたが、
「アメリカが我々に与えてくれた『言論の自由』はアメリカに対して適用しないということもわかった。」
時の権力者の都合のよい言論統制がされる。

自民党の憲法改正草案に
第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は「これを」保証する。
(自民党の追加か所) 2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない
3 検閲は、「これを」してはならない。通信の秘密は、「これを」侵してはならない。
「これは」の部分は自民党が削除した文言である。

秩序とはなんぞや、というのが私(著者)の関心になった。
「安寧秩序」がいあkに広く、融通無碍に適用されてきたかは、自分で調べてみて、得心できた。
まるで何でも入る袋のようである。この歴史的事実は肝に銘じておかねがならないと思う。
白川静「常用字解第二版」 秩とは「つむ、順序よくつみあげるついず(順序をつける)の意味であり、
(順序をつけてつみあげることから、秩序(物事の正しい順序、きまり)のように用いる)とあった。
なるほど、つみあげる人によって変わるのだ。

感想;
言論統制が時間をかけて行われ、気が付いた時には自由に発言できなくなってしまっている。
秘密保護法もその一つではないかと思いました。
国民に知らされないので国民は判断もできず、時の権力者の意向に沿って国民は戦争に行かされ、多くの人が亡くなって逝きました。
兵士210万人、民間人80万人の犠牲がありました。国を守るために死んで逝かれました。
国とは兵士も含めた国民の命ではないでしょうか?
その尊い命がたくさん失われ、守った国とは、当時の権力者の命と意向だったのではないでしょうか。
戦争責任者のA級戦犯が恩赦で助けられ、上官の命令で捕虜を殺害したC級戦犯が処刑されました。

多くの犠牲者をだした不毛な戦いの最たるものといわれているノモハン事件、インパール作戦の責任者は責任も取らされずに戦後生き延びています。
ノモハン事件で8.4千人が戦死、インパール作戦では、戦死:26,000人、戦病:30,000人以上(ウィキペデイアより)と言われています。
日本に唯一の被爆国として、武力による国家間の問題解決はしないとの戦争をしない道を引き続き歩むのが犠牲者の思いに報いる唯一の回答のように思います。
”集団自衛権”は戦争に巻き込まれるリスクを高めるだけのように思えてなりません。
また憲法違反と多くの憲法学者が述べ、元最高裁判事も憲法違反といっているものを内閣の解釈だけで進めることは、
ドイツのワイマール憲法が骨抜きになり戦争に突入していったのと同じのように思えてないません。


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