本の紹介&感想
「会津藩始末記 −敗者の明治維新」 永岡慶之助著 ”歴史に翻弄された会津藩”
会津藩は新政府に完膚なきまで攻撃されました。白虎隊など多くの若い人々が犠牲になりました。
新政府に降伏したのに、それが許されずに攻撃されました。
それは蛤門の変で、長州の優秀な人びとが討たれてしまったことを、長州が根に持っていて許さなかったと言われています。
昭和3年の秋、松平容保(かたもり)の孫娘勢津子姫が、秩父宮家に入輿されてようやく、維新時の「朝敵」の汚名から逃れることができたとのことです。
幕府から、京都の警護に松平容保が君命を受け辞退したが受け入れられず、任務に就きました。
まさに京都は攘夷派が天皇側と接触し流動的な企ての場でもありました。
孝明天皇は松平容保を信頼し、三条実美らのグループを追い出しました。まさにそのグループが朝敵だったのです。
蛤門の変では長州が天皇を味方にせんと戦いを挑みましたが、薩摩藩が会津藩側につき、長州を退けました。
その結果が7卿の都落ち、長州に落ち延びて行きました。
孝明天皇が崩御されると(天然痘で亡くなったとのことだが、噂では岩倉具視が毒をもったとのうわさも流れた)、
14歳の天皇(明治天皇)になったが、まだ若く祖父が実権を握り、その祖父と岩倉具視が手を結んだことで、
それまで天皇に恭順で信頼の厚い松平容保が朝敵になり、それまで朝敵だった公家たちが復活しそれを策略したのが岩倉具視とのことである。
また、それまで長州に敵対していた薩摩が長州と手を結んだ。
岩倉具視は正式な手続きを経ずに徳川幕府を倒せとの勅命(その勅命には会津藩と津藩を亡ぼすようにとの命もあり)を長州、薩摩に与えた。
攻撃をしようと立ち上がろうとする直前に土佐藩の山内容堂が徳川慶喜に大政奉還を提言し、
それを受け大政奉還をしたために幕府を倒す口実を失ってしまった。
そこで西郷隆盛は江戸に人を送り、豪商から金を掠奪するなどして騒動を起こし、幕府がその騒動に乗ってくるようにした。
幕府はついにその手にのり薩摩藩邸を攻めた。これにより、新政府は西郷隆盛を先駆隊とする兵を江戸に向けて進撃した。
その後の西郷隆盛のイメージと大きく異なっている。
米沢藩上杉斉憲は松平容保の窮状に深く同情を寄せ、
新政府側のやり方がひどく奥羽越列藩同盟を立ち上げ(31藩が参加)会津藩を救援しようと立ち上がったが、
新政府への願いもかなえられず、会津藩は悲惨な最後を迎えた。
降伏を示している会津藩を討伐しなくてもよいのではないかとの意見もでたが、長州の恨みが強く、討伐派が主導権を握った。
感想;
幕府の命を受け、京都の治安に尽力を就くし、孝明天皇からも信頼を得ていたのが、孝明天皇崩御後一変して朝敵になり、討伐までされてしまいました。
会津では長州の人との結婚は反対されていたとのことをきいたことがあるが、その理由もわかるように思います。
真面目に仕事をして恨みを買い、上が変わったら賊にまでされてしまい、討伐されたのですから。
明治政府は主に薩長が指導権を握りました。そのために新政府に参画できなかった藩では多くの苦難があったものと思われます。
まさに歴史は征服者が創り、征服者の思う社会になっていくのだと思います。