「脚気をなくした男高木兼寛伝」 松田 誠著
「脚気をなくした男高木兼寛伝」 松田 誠著
海軍では航行中に脚気に罹る兵が出て、船を運航できない事態が生じていた。脚気を防ぐことが緊急の課題になっていた。
英国に留学して疫学を学んだ高木は、脚気に罹る患者の背景を調べた。
脚気は囚人に最も多く、ついで水兵に多く、下士官になるとかなり少なくなり、士官になると脚気にかかる者がほとんどいなかった。
当時の1日当たりの食費は、水兵18銭、下士官30銭、士官40銭であった。
高木は食事の質によると考え、食べ物の窒素対炭素の比率を出してみた。
囚人1:33(窒素:炭素)、水兵1:28、下士官1:25、士官1:20。
そこで伊藤博文に提案したことで、天皇陛下に脚気の栄養説を話し、防ぐために海軍兵士の食費をUpすることを直訴する機会を得た。
それにより、実験をする機会を得た。軍艦「龍驤」は南米に練習航海に出ていたが多くの脚気患者を出して戻って来た。
376名の乗組員の内169名が脚気に罹り、25名が死亡した。そこで、軍艦「筑波」に同じコースを辿らせて比較した。
ただ積み込む食料は高木の栄養説を考慮したものにした。結果は乗組員333名中、14名が脚気に罹り、死亡者は0だった。
14名の内、4名はコンデンスミルクを飲まず、10名中8名は肉類を嫌って摂らなかった。
その結果を受け、海軍の米食をパン食に切り替えたところ劇的に脚気の患者は激減した。ただ、脚気の患者を0にすることはできなかった。
パンを食べない水兵がいたからである。
そこで、パンの小麦に近いものとして麦を考え、麦飯と米飯半々の食事にしたことにより、脚気の患者の発生はなくなった。
白米の糠は精製過程で取れやすかったが、麦では一部残ったため麦の胚芽に含まれていたビタミンB1が脚気の予防に貢献したのだった。
そのことが分かるまでには多くの研究を待たなかければならなかったが、脚気の患者は海軍からなくなった。
しかし、陸軍は栄養説を否定し細菌説を取り続けた。細菌説を主張した有力者に森鴎外がいた。
ドイツ留学から帰国した森鴎外は脚気の栄養説を否定した。
「某国(日本)の某隊(海軍)がある時期から米食を麦飯に切り替えたところ、統計的に同時期から脚気病の患者が減少したという。
ある者(高木兼寛)は、これは麦飯の抗脚気作用によるもので、米食こそ脚気の原因であると主張している。
しかしながら、これは単に脚気患者の減少時期と麦飯への切り替え時期が偶然一致しただけの話である。」
森鴎外はその後、軍の軍医の責任者になっても、主張を変えなかったために数万という陸軍兵士が脚気で死亡した。
高木が最初に考えたのは白米には脚気を起こす毒が含まれており、窒素が多い食品にはその毒を中和するものが含まれているとの考えであった。
その後、海外の研究者により、白米で脚気は生じるが、玄米で生じないことがわかり、違いの米ぬかが脚気を防ぐことがわかり、
そこからビタミンBが脚気を防ぐとの説が出され、ビタミンB1の発見に繋がって行った。
オリザニンを最初に単離したのは鈴木梅太郎であり、最初に化学構造式を提案したのは牧野堅であったが、
ビタミン発見の功績により、ノーベル医学生理学賞を受賞したのはエイクマンとホプキンスであった。
高木の功績は高く、ビタミン発見の最初の業績は高木の研究から始まると紹介され、
ビタミン発見に大きな貢献をした5人の名前を付けた南極の岬の一つに高木岬がある。エイクマン岬、フンク岬、ホプキンス岬、マッカラム岬。
陸軍の一部にも海軍の成功をまねて麦飯に切り替えようとした部隊もあったが、森鴎外の主張を取り入れていた当時の石黒陸軍軍医総監が禁じた。
台湾駐留陸軍軍医部長土岐に麦飯に禁じる訓示を与えている。
しかし、現場の軍医は陸軍医務局の意向に反して麦飯を採用するところも少しずつ増え、脚気を予防していた。
現場の軍医は石黒、森の石頭にあきれていたのである。
日清戦争では、海軍は脚気の患者を一人も出さなかったが、陸軍は脚気で死亡したのは4,000人であった。
当時、東京大学の研究でないもの信用できないとの考えがあった。
日本の医学はドイツを基礎としており、東京大学もドイツ医学であった。ドイツ医学は基礎を研究する傾向がった。
一方、高木はイギリスに留学して学び、イギリスは臨床を重視する傾向があった。
陸軍:海軍、東大(ドイツ医学):他(イギリス医学等)の対立の中で、陸軍ではその後も多くの兵士が脚気で亡くなった。
残念ながら、脚気で亡くなった兵士に対する責任は追及されていない。
日露戦争の傷病死者37,000人中、脚気の死亡者2,780人。戦傷による死者は9,400人であったので、ほぼ3倍の兵士が脚気で亡くなった。
明治天皇からも「軍隊の脚気病は麦飯を用いて確実に予防の効果をあげた。
この上なお調査会を設けて原因を調査研究する必要があるのか」と御下問があった。
明治41年に設立された、臨時脚気病調査会(森鴎外会長)は決断をくださず様々な調査を行ていたが、
海外の研究が進み、脚気の原因がビタミンB1だとされたのを受けて、ようやく、大正9年(1920年)、
「脚気はビタミンB欠乏を主因として起こる」との結論を出した。調査会が発足してから12年が経過していた。
東京慈恵医院の設立に尽力し最初の院長に就任した。看護婦教育所も始めた。日本で最初の本格的な看護婦養成学校であった。
慈恵医大の精神は「病気を診ずして病人を診よ」である。