本の紹介&感想

「アンパンマンの遺書」 やなせたかし著

父が中国で33歳で亡くなり、弟と母と祖母の4人で暮らしになり弟は伯父の養子に引き取られた。
その後母は再婚し、 伯父に育てられた。養子にはならなかった。東京高等工芸学校(千葉大学)の図案科に入学した。
数学はまったくできなかったが、暗記した本からそっくり出た。東京田辺製薬にデザイン担当として入社した。
兵役は乙種合格となり戦争にも駆り出された。上海から帰国したら、弟は戦死していた。
その後、高知新聞社に入社した。そこで妻と出会った。

漫画家として活動していたが、 当時の漫画家、横山泰三、加藤芳郎、萩原賢次が三羽烏、岡部冬彦「アッちゃん」
、根本進「クリちゃん」、小島功「仙人部落」で活躍しており、やなせたかしさんは一人置いてきぼりだった。

NHKより「漫画学校の先生」のテレビ出演。そこで2分だけもらって漫画の描き方を紹介。
その頃、手塚治虫が登場し、それまでの漫画界の地図を塗り替えていった。
手塚治虫を慕う、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、藤子不二雄など手塚の影響を受けて大きく育って行った。

インタビュー記事の依頼もあり、丹下清子さんを訪問した時、「若い人では永六輔がいいわね」と言われそれを記事にした。
そうした永六輔さんが労音ミュージカル「見あげてごらん夜の星」をやるので、舞台装置の依頼があった。
全く経験がなかったが引き受けた。
宮城まり子さんから「今度はじめてリサイタルやるから、その構成をしてほしいねん」と言われ、やったことが無かったが引き受けた。

羽仁進さんから映画のシナリオの依頼があり、これもやったことがなかったが引き受けた。

山梨シルクセンター(サンリオ)から、詩集を出しましょうということで、「愛する歌」をこれも初めてだったが出した。
これは5集まで出て10万部以上は売れた。

週刊朝日が100万円懸賞漫画を募集し、プロであったが、ペンネーム「やなせたかし」で応募したらグランプリに輝いた。
いずみ・たくさんより「やなせさんは立派なプロの漫画家なのに応募する勇気がある。
ぼくは感動してしまった」と言われた。うだつのあがらない三流漫画家の破れかぶれの行動だったのだが。

文化放送のディレクターから、アナがあきそうなので、何でもいいから大至急1本かいてくださいと依頼があった。
それで書いたのが「やさしいライオン」だった。

手塚治虫さんから、今度長編アニメをやるのでその中でキャラクター・デザインをやって欲しいとの依頼があり引き受けた。
キャラクタをデザインしたのは初めてだった。アニメがヒットしたお礼として、手塚治虫さんからポケットマネー出しますから、
アニメーションの短編を自由に作ってくださいと言われた。そこではじめてアニメーションを手がけることになった。
「やさしいライオン」のアニメーションを作った。

サンリオから雑誌を作らないかと言われ、「詩とメルヘン」を作成した。人気もでて月刊誌になった。
その頃に「漫画家の絵本の会」をつくった。
アンパンマンの絵本が初めて出版されたのは53歳の時だった。
編集者が、こんな絵本はダメだと言われた。ところが、その後、子供たちからの人気が出て来た。
アンパンマンは、やなせたかしさんの人生が生み出した作品だと思いました。

依頼された仕事は初めてでも引き受けてチャレンジする。
自分に限界を設けずに、つまり「自分はそれはできない、そんな能力はない」とは思わずに新しいことに全力で取り組んだ。
そういった一つひとつの結果と人の繋がりが、アンパンマンに繋がったのだと思いました。

歌「手のひらを太陽に」、「アンパンマンマーチ」の歌詞はやなせたかしさんの作品ですが、人の心をうちます。
これらの歌はやなせたかしさんの生き方を表しているように思います。
落ち込んだ時に、カラオケで歌いたい。

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