本の紹介&感想
「最後の将軍」 司馬遼太郎著 ”戦乱を防いだ将軍!”
慶喜のとらねばならぬ戦略は、絶対恭順であった。
他の何ものを犠牲にしてもこのひとすじをつらぬかねばならぬとおもった。
慶喜は、現世のなまのあの顔見知りの京都の公卿、大名、策士どもに恭順するのではなく、
後世の歴史にむかってひたすらに恭順し、賊臭を消し、好感をかちとり、賊名をのぞかれんことをねがった。
それ以外に、あの策士どもと太刀打ちできる手はない。ひたすらに弱者の位置に自分を置こうとした。
幕臣に会うことをしなかった。趣味に没頭した。大政奉還したのはまだ33歳の時だった。
慶喜にすれば大政を奉還した自分をなぜ朝廷は朝敵としたのか、という根のふかい恨みがある。
具体的には朝廷に対してではなく、薩人の大久保と西郷に対してであった。
慶喜の薩人へのうらみは深く、あるとき側近に、「長州人は最初から幕府を公然と敵視していたから自分はなんともおもわぬ。
その点、薩人はちがっていた。最初は幕府と親しみ、ともに長州を追い落とした。
が、情勢が変化すると、表面親しみを保持するがごとく犠装し、
裏面で工作し、ぎりぎりのところで寝首を掻くような仕方をした」といった。
慶喜が62歳に参内した。何度も断ったが断り切れなかった。
それから4年後、慶喜は華族に列せられ、公爵を授けられた。大正2年77歳で死去した。
葬儀には、宮中から勅使が参向した。旧大名の当主たちも、三百余人ことごとく参列した。
没落した旗本の家々からの来訪者も多かったが、なによりも異彩としてひとの目に立ったのは、諸外国の使臣が多いことであった。
かれらからみればかつてのこの国の元首の死であり、それに相当する礼ををかれらはとろうとした。
とくに米国などは、日本政府の外務大臣を通じ、大統領親書というかたちによって公式に哀悼のことばを寄せた。
日本の前期の王の死に対する礼としてはこれ以上の形式はないであろう。
感想;
慶喜は大政奉還したが、朝敵にされ、かつ西郷隆盛が賊伐として江戸に進撃した。
その口実を得る為に大久保利通は浪人を雇い江戸で狼藉を行わせた。
それに反発した藩が薩摩藩邸を攻撃した。それを理由に討伐を進めた。
長岡藩は中立を保とうとしたが許されずに攻撃された。
京都を警備していた会津藩は恭順を示したが、長州が許さずに会津藩を攻撃した。
慶喜が大阪にいた時、薩摩と長州を攻めていたら状況は変わっていたと思われるがそれを行わなかった。
当時薩摩と長州側は3千の兵、幕府側には1万5千の兵がいた。
大久保利通を中心とする朝廷側は幕府に領地返還を命令し、それに従った。
領地返還は家来が路頭に迷うことを意味した。
歴史は勝った方が創るといわれています。
学校で学ぶ歴史では知ることができない実際の駆け引きなどを知ると慶喜に対する見方が変わりました。
文京区に慶喜終焉の地があります。丸ノ内線茗荷谷駅から徒歩15分です。
http://www.city.bunkyo.lg.jp/bunka/kanko/spot/ato/yoshinobu.html
慶喜邸があった頃からの大銀杏が残っています。