「フランクル人生論 苦しみの中でこそ、あなたは輝く」 山田邦男著"

フランクルは日課の散歩の時間に次のような「讃美歌風の考えにふけった」という。
 祝福させたまえ、その運命を
 信じさせたまえ、その意味を

「これは、どんなことでも、人に起こることにはすべて、何らかの究極的な意味があり、まさに超意味があるはずだ、ということえある」

「苦悩は、人間に、ものごとを見抜く力を与え、世界を見通せるようにします。人間は存在を見通し、存在はみずから苦悩する人間に開示します。苦悩する人間は、まさに真理のすぐ近くにいるのであり、たやすく真理に気づくのです。彼は真理の中に立っているのです。

教育者にして仏教者であった東井義雄はこう詠っている。
「悲しみを とおさないと 見せていただけない 世界がある」

仏教系の大学のパンフレットに「今、いのちがあなたを生きている」があり、大学でフランクルの生きがいを教えているが、この一言が全てを言い表している。

                    充足 ホモ・パチエンス(Homo patiens)
            サンクチエンス  |
     失敗 --------------------------------------------- 成功 ホモ・サピエンス 
                       | Existential vacuum(実存的空虚感) 
                      絶望

フランクルの人生の目的「人々がそれぞれの人生の目的を見つけるのを手助けする」こと。

玄侑宗久氏のエッセイの中に、
京都の禅宗の本山の管長は毎朝早く、自転車に乗って境内を散歩しならが、出会う人に「おはようございます」と挨拶された。その中に、いつも出会う老人がいて、その人にも「おはようございます」と丁寧に挨拶されたのだが、唐人は何の答えも返さなかった。それが三年も続いた。 ところが、三年後のある朝、その老人は「管長さんの挨拶に立ち止り、近づいてきて号泣したのだった。その時、お爺さんの中でどんな変化が起こったのか、それは誰にも分らない。三年間挨拶しつづけたりそれを無視しつづけた時間があって初めて、そんな深い変化があったのだろう。それ以降のお爺さんは人が変わったように明るくなったらしい。」 管長さんは挨拶が返されなかったことを一向に気にしなかった様子である。このことを禅では「前後際断」と言う。
沢庵禅師の原文、「前後際断と申す事の候。前の心をすてず、又今の心を跡へ残すが悪敷候なり。前と今との間をば、きってのけよと云う心なり。是を前後の際を切りて放せという義なり。心をとどめぬ義なり」

創造価値についてフランクルは、あるエピソードを残している
ある日、一人の青年がフランクルのところにやってきて、生きる意味の問題で次のように異議を唱えた。「あなたはなんとでもいえますよ。あなたは現に、相談所を開設されたし、人々を手助けしたり、立ち直らせたりしている。私はといえば・・・。私をどういう人間だと思いですか。私の職業をなんだと思いですか。一介の洋服屋の店員ですよ。私はどうしたらいいんですか。私はどうすれば人生を意味あるものにできるんですか」。 この青年の異議に対してフランクルは、次のように述べている。
「この男が忘れていたのは、なにをして暮らしているか、どんな職業についているかは結局どうでもよいことで、むしろ重要なkとおは、自分の持ち場、自分の活動範囲においてどれほど最善を尽くしているかだけだということです。活動範囲の大きさは大切ではありません。大切なのは、その活動範囲において最善を尽くしているか、生命がどれだけ「まっとうされて」いるかだけなのです。各人の具体的な活動範囲内では、ひとりひとりの人間がかけがえなく代理不可能なのです。だれでもがそうです。各人の人生が与えられた仕事は、その人だけが果たすべきものであり、その人だけにもとめられているのです。」
「古人曰く、径寸十枚(直径3cmの玉、10個)、是れ国宝に非ず。一隅を照らす、此れ即ち国宝なり」(最澄

ある青年の話
容姿端麗で学歴も職歴も一流のエリートであった。法学部を出て一流企業に就職し、周りの評価も高く出世していった。ところが伊藤氏(教育心理学者)に会いに来た彼には生気がなく、表情も暗すぎた。 彼の勤めている会社が一部兵器製造に関わっていて身震いするほどの嫌悪感におそわれるといる。 でも、今の会社を辞めることは両親も親しい同僚も反対している。青年は帰り際「ぼくは生きていないんです」。 四年ぶり、ふらりと尋ねて来た。はっきり違うのは、その表情だった。なんと明るいのだろう。底抜けに快活だ。とりわけ、目がいい。光っている。そして柔和である。 「先生と別れてから、さんざん考えました。陶芸を始めました。いただいている給料は1/3に達しないほどです。こんどはだれもお嫁さんを世話してくれなくなりました。世の中っておもしろいですね。娘を持っている親御さんたちは、結婚相手の選択基準が、お金とか、身分とか、将来性といった、いわば人間に附着しているものなんですからね。四年前に、そういう社会基準をすっぱりはずしたことに、真底からよかったと思っています。朝早く起きるのも苦でなくなりました。今ではほんとうに楽しく、充実した一日のはじまりであるとおもいます。粘土をこねることも、窯の火加減をみることも、少しずつわかって来ました。」 伊藤氏は最後にこう付け加えている。
「ほかの人にくらべて優れているかどうかではないのだ。あなたはあなたのなりうるものになっているか、それが大事なのだ。この青年は、自分のなりうるものに、はじめてなりえたのだ」

愛とは西田幾多郎氏によれば「自他一致の感情」である。
自他一致とはいうことは、自己と他者が団子のように直接的にくっついて一つになるということではない。仏教では、自己を忘れて他者に専心するということ。フランクルの言う他者への「自己超越」ということがなければならない。

自分を育てるのは自分 東井義雄著

木村ひろ子氏脳性麻痺、両手両足が動かず、話すことができなくなった
三歳の時に父親、十三歳の時、母親が亡くなった。彼女は学校にも行けず、わずかに動く左足で辞書をめくって漢字を覚えたという。 「不就学 なげかず左足に 辞書めくり 漢字暗記す 雨の一日を」 彼女は左足でお米を洗い、左足で墨をすり、左足に筆をはさんで絵を画いた。そして、その絵を売って得た収入の中から、毎月、体の不自由な人たちのために寄付しているという。 木村さんの文章。
「わたしのような女は、脳性マヒにかからなかったら、生きるということのただごとではない尊さを知らずにすごしたであろうに、脳性マヒにかかったおかげさまで、生きるということが、どんなにすばらしいことかを、知らしていただきました。」

「苦悩する人間は、まさに真理のすぐ近くにいるのであり、たやすく真理に気づくのです。彼は真理の中に立っているのです」

「人間は、自分がそれを欲しようと欲しまいと、認めようと認めまいと、息をしている限りは何らかの意味を信じているのです。自殺する人ですら、何らかの意味を信じています。たとえ生きる意味、生き続ける意味ではないにしても、死ぬ意味を信じているのです。本当にその人が何の意味も信じず、どのような意味も信じられないとするなら、そもそも指一本動かすことすらできないはずでありましょう。」

島秋人(死刑囚;一軒の農家に押し入り2,000円を奪ったが、家人に発見され争って奥さんを殺害。昭和41年に処刑された)
・たまわりし処刑日までのいのちなり心素直に生きねばならぬ
・被害者に詫びて死刑を受くべしと思ふに空は青く生きたし
・愛に飢ゑし死刑囚われの賜りし菓子地に置きてありを待ちたり
・世のためになりて死にたし死刑囚の眼はもらひ手もなくかもしれぬ
・許される事なく死ぬ身よきことのひとつをしきりと成して逝きたし
・笑む今の素直になりしいのちの在るとは識らず生かされて知る

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