M先生との出逢い

 「活性化T細胞輸注」という治療法を開発されたM先生。迫先生が学会で治療法の発表を聞いてきてくださいました。大阪で採血し、それを新大阪まで持って行き新幹線で届けてもらい、到着時刻に受け取りに行ってもらいます。そして培養の開始。もともと少ないリンパ球の中の、ほとんど無い「Tリンパ球」を2週間かけて培養してもらい、冷凍保存で戻ってきてそれを点滴します。最初、半凍りのまま点滴して(H先生ならではのことです)痛かったので、次からはH先生の手のひらで温めてもらい「リンパ球が増えますように」と願いを込めて点滴を始めてもらいました。この治療の副作用として手のひらの皮がかゆくてかきむしりずるむけになりました。

 初めて診察を受けたときに驚いたことがあります。脱いだ服、靴下まで履かせていただきました。また、私の荷物を衣装かごへ運んでもくださり、嘉朗と二人で「さこせんせいとぜんぜんちゃうなぁ」といったことがあります。(誤解がありませんように・・・H先生はぶっきらぼうだけどものすごく熱い先生です。いつも嘉朗を中心に考えてくださいます。ご出身が鹿児島なのでそんな風に見えてしまうのだと思います。)

 「活性化T細胞輸注」という治療法で嘉朗が少しでも元気になってくれるのならと思いM先生を信じ、信頼して転院することにしました。

 転院後の私たちは、河内弁で大声で話していて、周りに迷惑をかけていることに気づかずにいました。そんな私たちを受け入れてくださったI先生。ペンギンが歩いているような歩き方なので 嘉朗は「ペンペン」と呼んでいました。臍帯血移植の決断を迫られた時、I先生が 

「みんなおんなじ船に乗って闘うんです。舵取りを間違えそうになったら誰かが舵を取るのです。一緒の船に乗ってゴールを目指しましょう」

とおっしゃってくださり決断しました。

 

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