小学校へ入学 〜I先生との出会い〜
事前に教育委員会や校長先生と打ち合わせをさせていただき、「たんぽぽ」という嘉朗が休める部屋と嘉朗についてくださる先生と配置してくださいました。冷蔵庫やヒーターなどの備品も揃えていただきました。運動会では毎年アナウンスを担当させていただき、大綱引きでは大きな旗を振る大役を頂きました。学校が大好きでどんなにしんどくても「学校いく」といっては送り迎えしていました。病院の日もぎりぎりまで学校にいて病院へダッシュしていました。遠足のときは大きなマスクをつけ車椅子でいきました。4年生で始めて一人で遠足に参加したときは、病気だということを忘れて思いっきり遊んできたと満面の笑顔で話してくれました。
I先生は嘉朗を担任するために転勤してきてくださったベテランの先生。毎日の連絡帳のやり取り、事細かく嘉朗を見てくださいました。怖いけど「怒ってくれる先生がすきやねん」とよく言ってました。特別扱いは嫌いで何にも全力で取り組んでいた嘉朗です。
二年生のときの大玉ころがしに参加して時の嘉朗の笑顔は今でも脳裏に焼きついています。耳たぶが腐って落ちてしまったのもこのころです。痛がって、帽子もかぶれず、原因もわからず何の治療もしてあげられませんでした。ちょうどそのころ、主治医の先生が「活性化T細胞輸注」という治験の話を聞いきてくださり受けることに決めました。嘉朗の血液をいったんT大学へ送り、T細胞だけを増やし、再び嘉朗に点滴するという治療法です。その治療法でM先生との出会いがありました。そのときはまだ嘉朗の生死を左右さえる先生だとは思ってもみませんでした。
小学校での成績は常にトップ。お友達が「学校良く休んでんのになんでや?」と思うほど勉強に取り組んでました。週一回の点滴治療の通院の時には勉強道具を持って行き、点滴中に勉強していました。また、クラブでは将棋部に入り、無敵でした。将棋は関西道場に二週間に一度通い、プロの先生に教えてもらっていました。移植のとき、関西の棋士の先生方から励ましの色紙をいただきました。とても貴重なものです。あの谷川先生までが書いてくださっていました。嘉朗の得意な技は桂馬使いです。