H先生との出会い
転院先の先生は、今までと違い検査データをすべて教えてくださり、いろんな学会へ出向いては似た症状はないかと調べてくださいました。そしてついた病名は「原発性免疫不全症」「自己免疫疾患」「間質性肺炎」「再発性多発性軟骨炎」・・・どれも世界では珍しく、またこんなに合併しているのはまずないことでしょうとのことでした。つばさの会の方のおかげでいろんな勉強ができました。そして迫先生も私たちの要望を聞き入れてくださり、たくさんの人のおかげで嘉朗は守られていました。耳鼻科のN先生にもいっぱいかわいがっていただきました。エレベーターの中での看護婦さんの噂話に
「N先生はいつかナイフで刺されるよね。あっちこちに敵(思いを寄せている人)がいるよね。あんなに男前やしね」
という会話を聞いて大笑いしました。
H先生は見た目とても怖い印象の先生ですが、話してみるととても暖かくお父さんのような存在でした。骨髄移植のドナーが見つからず、妊娠を試みた私に
「もし、HLAが合わなくてもちゃんとそだてられる?」と聞かれました。強気な私は「必ず合う!!!」そう信じて不妊治療を開始しました。匡将が生まれてすぐに臍帯血からHLAの検査をして頂きましたが、結果は合致していませんでした。それを告げるときの迫先生の涙を私は忘れることができません。
急な発熱で何度も診察外に救急でお世話になったり、外来診察日でないのに診察してもらったり・・・至れり尽くせりでおせわになっていました。
H先生は2冊の書物を出版されていますが、どちらの本も先生の暖かい気持ちがあふれる文章で書かれています。どうしてそんな愛情であふれている先生の下から離れて転院してしまったのか後悔がつきません。
診察順番がきて、マイクから呼ばれる先生の口調で今日は機嫌がいいか悪いかがわかり、 嘉朗と良く笑っていました。嘉朗は先生の呼び声を真似しては笑っていました。
病気でしんどいのにいつも笑ってくれる嘉朗。その笑い声が、笑い顔が当時の私の生きがいでした。