アドラー人生を生き抜く心理学 岸見一郎著
アドラーはトラウマに言及した後、「(われわれは)経験の中から目的に適うものを見つけ出す」と。
人が結局そのことを選択するのは、その時、そのことがその人にとって「善」なのである。
「大切なのは何が与えられているかではなく、与えられているものをどう使うかである」
「性格とはライフスタイルが外に出ているもの」
ライフスタイルとは、
前から知っている人が来たので声をかけようとした瞬間相手が目を逸らした。
1)相手は自分を嫌っている
2)たまたま目にゴミが入った
3)自分に気が付かなかっただけ
どの判断をするかは個人のライフスタイルによって異なる。このライフスタイルは変えることができる。
1.自己概念;自分がどんなふうであるかについての意味づけ
2.世界像;自分のまわりの世界が自分にとってどんなふうであるかについての意味づけ
3.自己理想;自分がどうあるべきであるかということについてのイメージである。
「人がどこからくるかということしか知らなければ、どんな行動が人を特徴づけるか知ることは決してない。
しかし、どこに向かって行くかを知れば、どちらに踏み出すか、目標に向けてどんな行動をするかを予言することができる」
「意味は状況によって決定されるのではない。われわれが、状況に与える意味によって自らを決定するのである。」
「はい・・・でも」といって、結局、課題に取り組まない。「その仕事をします、でも・・・」というふうにいう。
「でも」といって、自分が直面する課題に取り組めない理由を持ちだすわけである。
「Aであるから(あるいはAでないから)、Bできない」という論理を使う。
アドラーは、このような論理を日常生活で多用することを、「劣等コンプレックス」と呼んでいる。
「劣等コンプレックスを告白したまさにその瞬間に、生活における困難や状況の原因となっている他の事情などをほのめかす。」
もしもこの症状がなければ、と神経症者がいう時、その目的は、そのようにいうことによって、負けたり面目を失うことを回避することである。
何をするにも必ず成功しなければならないと考え、必ず成功するという保証がある時にだけ挑戦する。
しかし、失敗が少しでも予想され、成功することが確信できなければ、最初から挑戦しようとしない。
もしくは、失敗しても、そのことによっては致命的な打撃を受けることがないように、
いわば綱渡りをする人が転落することを予想して、あらかじめ下に網を張っておくようなことをする。
神経症的ライフスタイル
1)私には能力がない、と思う
ここでいう能力とは、人生の課題を解決し、他者に貢献する能力のことである。
2)人びとは私の敵である、と思う
誤った方向での優越性の追求
1)他者を支配すること
2)他者に依存すること
3)人生の課題を解決しようとしない
未来に向けた原因論
自分は決して幸せではなく、失望するだろうと考えている子どもたちがいる。
このような恐れを持った人は、結婚生活において、嫉妬と疑いを持つであろうことは、想像に難くない。
そして、そのように思っていると、相手の中に自分への愛情が少なくなったことの証拠を見出すのは、時間の問題である。
健康なライフスタイル
1)私には能力がある、と思う
2)人々は私の仲間である、と思う
・勇気づけと自分の価値
・他者からの評価にとらわれない
・短所を長所と見る
・自分の価値は貢献感によって得られる
「自分に価値があると思う時にだけ、勇気を持てる」
「そして、私に価値があると思えるのは、私の行動が共同体にとって有益である時だけである」
・失敗を恐れない
ともかく課題が与えられれば、できることから少しずつでも始めていくしかない。
これは勇気そのものであり、アドラーはこれを「不完全である勇気」「失敗する勇気」と呼んでいる。
・対等であること
アドラーは、自分を殴りかかった患者(治癒困難と他の病院から回された統合失調症の人)に
「どうだろう。あなたを治すためには二人が何をすればうまくいくと思うかね」
アリストテレス
キーネーシス(動)とエネルゲイア(現実活動態)
エネルゲイア 目的地に行く場合は目的地に達して目的を達し、それまでは不完全
エネルゲイア なしつつあることがそのままなしてしまったことである。ダンスはダンスを踊っていることが意味がある。
人生はエネルゲイアである。
「正しい生き方とは一種の遊びを楽しみながら生きることである」
アドラーは「生きる喜び」という言葉をよく使っている。
エネルゲイアとして生は一瞬一瞬を大切にする。
今ここに生きることで、常に息詰まる緊張状態の中に身を置くのではなく、心から人生を楽しみたい。
アドラーも、生きる喜び、喜びに満ちた人生、生きる楽しみについて随所で語っている。
「自分への執着」が個人心理学の中心的な攻撃点であるとアドラーは言っている。