「僕は9歳のときから死と向きあってきた」 柳田邦男著 ”身体的な命と精神的ないのち”

両親と子ども4人の6人家族でした。著者は末っ子でした。9歳の時、次兄が結核で亡くなりました。
そのショックもあり、結核を患っていた父も亡くなりました。長兄がお父さんの書物を元に古本屋をやり、母と一緒に家族を支えました。
著者は息子さんを自殺で亡くされています。そのことは「犠牲(サクリファイス)」を書くことによってまた書くことを始められたそうです。
それまでは何もできなかったそうです。

死を前にした人々から受け取った言葉;
「私の生涯今日から始まるのだし、これからが本番なのだ。」「身体がダメな分だけ、心が豊かになりたいもんだ」
遺された人の気づきの言葉;
「『なぜ?』と問うと、哀しみしか返ってきません。でも、どんな意味が・・・と問うと、哀しみの中でようやく立てる」
「胸をかきむしらんばかりの苦しみ、悲しみを抱え、そこから逃げずに必死に生きようとするその人生そのものが『癒し』だと思うのです」

「遺された者にとって、死は辛く悲しい。しかし、悲しみのなかでこそ、人の心は耕やかされるのだ。
この作品を書きながら、私の脳裏にしばしば浮かんだ言葉がある。アメリカの小説家ウイリアム・フォークナーの次の言葉だ。
Beween grief and nothing, man will take grief always
(悲嘆と虚無のどちらかを選ばなければならないとき、人はいつも悲嘆を選ぶものだ)

1)死の多面性
2)身体的命と精神的いのち
 身体の命は死ぬと失くなります。その人のことは遺された人々のこころの中に残ります。
 著者はそれが精神的ないのちではないかと紹介されています。身体の命は亡くなっても、精神的ないのちは遺された人々の中で生き続けるのです。
3)「生と死」の人称性
4)「2.5人称の視点」
 自分の死は1人称。家族の死は2人称。知らない人は3人称。
 医者や看護師は患者の死は3人称であるが、そこに2.5人称の視点を持って欲しいとの説を紹介されています。
5)「死後生」

感想; この本はいろいろなことを考えさせられました。 周りの人の死について、自分の死をについて考えるヒントを与えてくれる本でした。


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