「アンソニー・ロビンズの自分を磨く」アンソニー・ロビンズ著 "信念の力は身体に大きな影響を与えている”& "この苦しみには意味がある"

”信念の力は”どんな薬より強力に効く
ハーバード大学のヘンリー・ビーチャー教授の行った実験。
医学部の学生100人に、「2種類の新薬のテストをする」と伝え、赤いカプセルには興奮剤、青いカプセルには精神安定剤が入っていた。
しかし、実際には、赤いカプセルには精神安定剤、青いカプセルには興奮剤が入っていた。
そして、実に半分以上の被験者が、本来の薬効とは正反対の変化(つまり被験者の信じる薬の効果)を示したのだという。
ビーチャー教授は、「薬の効果は化学的な成分だけでなく、患者が薬効をどれだけ信じるかに大きく左右される」と語った。

信念はあなたに”絶対的な命令”を下している
ある時、ロサンゼルス郊外で行われたフットボールの試合で食中毒を起こした観客が何人かいた。
中毒を起こした患者は全員、自動販売機で買ったソーダを飲んでいたので、検査に立ち合った医師は、それが原因だろうと判断した。
そこで、「自動販売機のソーダが原因で食中毒にかかった患者が出たので、自動販売機で買ったソーダは飲まないように」とアナウンスしたところ、
スタンドで大混乱が起きた。嘔吐する人、気絶する人が続出したのだ。
販売機で何も買っていに人でさえ具合が悪くなってしまった。多数の観客が、近くの病院に救急車で運ばれた。
ところが、自動販売機のソーダが食中毒の原因でないと判明した途端、患者の中毒症状はケロッと治まってしまったのだ。

今信じている信念を少し変えるだけで、人生を一瞬にして変えられる。

">「ものを見る目が曇ってきた」時、思い出すこと
他の人の生き方を参照することは、ものの考え方や感じ方を変える効果的な方法の一つである。
私は、「働き過ぎて、ものを見る目が曇ってきたな」と思うと、セミナーに参加していたある人のことをいつも考える。

彼は心優しく、穏やかな人だったが、悪い時に悪い場所に居合わせてしまった。
もうすぐ45歳の誕生日という時に、彼はあるガソリンスタンドに立ち寄った。
そこには刑務所から出たばかりの二人の男が待ち構えていた。
あろうことか、この二人は娑婆の暮らしが合わず、何とかして刑務所に戻るために、このスタンドに最初にきた人を殺すことにしたのである。
相手が男だろうが、女だろうが、誰でもかまわなかった。とにかく最初にやってきた人を殺そうというのだ。
そして、たまたまやってきたこの男性がガソリンを入れている間に襲いかかり、殴り殺してしまった。

これを読んで、あなたは自分が問題を抱えていると言えるだろうか。

彼は、奥さんと4人の子どもを残して逝ってしまった。知らせを受けて、私は震え上がった。
とても信じられない話だった。こんなひどい経験から、どんな「前向きな意味」を見出せというのか。
私の知り合いがこんな目に遭うなんて、想像もしていなかった。
私はすぐに彼の奥さんに電話をして、私にできることがあれば何でもすると申し出た。
私の第一の目標は、彼女と子どもたちが、この経験から何らかの意味を見出せるように手を貸すことだった。
こんな経験をしたら、「人生は生きるに値しない」と思わずにはいられなくなる。
「人間は邪悪で破壊的な生き物だ。自分がどんなに正しい生き方をしていても、雑草のように簡単に刈り取られてしまう。
だから無駄な努力はやめてしまえ」
そんなふうに考えてしまうのは、たやすいことだ。

私は彼女に、子どもたちのためにも、この痛ましい経験に何としても「意味を見出す」ことがいかに大切かを語った。
そして、この経験にどんな意味を見出せるかと訊ねたところ、
彼女は「その苦しみの深さは計り知れないが、一つだけいいことがあった」と言う。
それは、「この事件が新聞で報道されてから、信じられないほど多くの愛情がこもった支援や心遣いをもらった」というのだ。
その地域の、文字通りあらゆる人から何百通という手紙が届き、支援の手が差し伸べられていた。
そして、「この苦しみには意味がある」と信じられたことで、
彼女はこの「人生で最低の経験」から自分を解放し、前に進む力を得ることができたのだ。

感想; 感想;
心身一如ということばがあります。心と身体は一つで相互に関係しあっているとの意味です。
同じ事象でも、見る人によって不幸に見えることが、それを見て幸せあるいはチャンスと考える人もいるということです。
自分を幸せにするには、その事象を生かす方向で考えて行くことなのでしょう。
ヴィクトル・フランクルのロゴセラピーでは、「人生が自分に問いかけてくる。
それにYesと言ってそれを受け入れそれを生かして生きて行く」ことだと教えてくれています。

ロゴセラピー(「夜と霧」の著者ヴィクトール・フランクルが始めて心理療法)では、「人生が自分にYesかと問うてくる」と考えます。
まさに、残酷な過酷な状況を受け容れるかと問うて来たことになる。
生きて行くということはそのような状況の中で何か価値を見出して行くことなのでしょう。
彼女は周りの愛情に支えられ、人生にYesと言えたのではないでしょうか。それしか、幸せに生きる選択肢がなかったとも言えるように思います。


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