「大笑いゼーションでノーマライゼーション」 講師;桂 福点氏(全盲)

大笑いゼーションでノーマライゼーション 埼玉いのちの電話主催
講師;桂 福点氏 全盲
日時;2014年12月14日(日)13:40〜15:00

先ほど、埼玉いのちの電話の方が私を間違って、「桂しょうてん」と呼ばれましたが、まだ昇天していません。(笑い)
桂福点は桂福団治師匠の10番目の弟子なので、10(テン)になりました。これがテンだからよいが、2(ニ)だと腹痛(ふくツー)で。(笑い)

中学の時に自殺のことをずっと考えていました。
今は音楽療法やお話をしています。音楽療法はご存知ですか?ご存知な方は拍手でお願いします。(会場から拍手、何かを確認するときは拍手で)
  音楽を聞いて貰って病気をよくしていこうとするものです。
では次の曲のイントロを聞いてください。何の曲か?
(会場でお一人が、涙そうそうと)
そうです。なだそうそうです。(全員で“涙そうそう”を歌う)

落語家に何故なったか。
障害者の理解(いのちを支える)の4つのポイント
1)自分の障害を理解する
2)人との出会い
3)自分を生かせる場がある
4)障害ではなくその人を理解する

  小さい時に緑内障になり、これまで手術を7回した
右目だけが0.01 そのため十分見えないので、ドッジボールしても直ぐに当てられたりと、のろまだった。
目の色が違ったり(緑色)、目がでていたので、あだ名付けられた。出目金、ビー玉とか。
そのため引っ込み思案になった。

その後、盲学校に転校した。自分は片目で生きて来ました。盲学校に行くと両目が見えないのに手が悪いとか。
まったく目が見えないのに足が悪い。まったく目が見えないのに口が悪いとか(笑い)の人がいました。
そのため、皆の為にいろいろしてあげている内に、自分が元気になって来た。
障害を持つ人がいたら、障害があっても、仲間がいるということを教えてあげて欲しい。

片方の目がまだ少し見える時は、近所の障害がない友達とマンガを描いていました。
ゲゲゲの鬼太郎が好きだった。鬼太郎は片目で自分と同じだった。
中学校の時に急に視力が落ちて来ました。参天のピンカロピンという薬で、参天なのでサンピロと呼ばれていました。
何でもサンピロ注しなさい。と言われた。目が痛い、目が乾く、ピンサロさしなさい。鼻が出ると言えばピンサロさしなさいと。(笑い)

では、配られたビニール袋を出してみてください。
茨城で行った時は、高齢者が多かったのか、ビニールの袋に既にみかんの皮が入っていました。(笑い)
ビニール袋を折り曲げて何度も、そして目の前に置いて見てください。
どんな感じに見えるか感想を聞かせてください?
(会場の人から)「ビニールを重ねるとだんだん見えなくなって来ました」、「見えなくなると不安になって来ました」。
ぜひ私のファン(不安→ファン))になってください。(笑い)

このように少し見えていた片方の目もだんだん見えなくなって来ました
中学校の時、ドンドン不安になって来ましたた。
その時の先生が、どなる、殴る、蹴るの先生でした。髪の毛を掴んでどつく。暴力団の組員みたいな先生でした。話を聴いてくれない。
その先生の宿直の日は私を寄宿舎に泊めるようになりました。それが嫌で嫌で、不登校になってしまいました。
そうしたら、当時 A,B,C,Dとクラスがあって、Aは優秀、Bはできない生徒が多い。Dは生涯が重いと。
先生は自宅に来て親に「学校に来ないようならDの生徒と交換しよう(私はA)」と親に言って来ました。
前に私は作業所に連れて行って貰ったことがありました。そこで障害者の人を見ていました。
先生の「Dの生徒と交換しよう」との発言が障害者を差別しているように感じました。
その時は、死のう。その先生をいてまおう(やっつける)。そう思ってナイフを持ち歩くようになっていました。
朝起きたら金縛りになっていました。よく見たら母親が馬乗りになっていました。
母親が「あの先生をやろうと思っているんやろう。私を殺してからにしてと」。私の顔に水滴が落ちて来ました。母の涙を流しているのがわかりました。
でも、母親を振り切って学校に行ったら、50歳くらいの女性の先生が今日残ってあなたに上げたいものがあると。
何をくれるんだろうと思っていたら、それはミレーの落穂拾いの絵でした。この絵を先生が説明してくれました。
そして、「あんたはあほや、でもあんたはあたたかい、障害の重い子どもに親切にしている。
これから、人に温かくすることをやっていきや、ゆっくりしていけばよい」と言ってくれました。
なんか目の前が明るくなったのを覚えています。人は誰かからコテンパンにやられると、やられた人は違う人をコテンパンにしてしまう。
やられたらやり返す。やられると必ずやり返そうとするものです。寂しかったです。

そんな時、寄宿舎で歌合戦があるから来なさいと言われ行きました。
水頭症の肌の白い子どもが、言語はしゃべるけど知的障害で学習能力は小学生レベルでした。その子が次の歌を歌いました。
(道化師のソネット、さだまさし)  笑ってよ君のために 笑ってよ僕のために
君のその小さな腕に 支えきれない程の哀しみを
せめて笑顔が救うのなら 僕は道化師になろう
いつか真実(ほんとう)に笑いながら 話せる日がくるから

この歌がこころにしみ込んできました。生きるのはすごいな。
生きているのはすごいな。この子みたいに自分は生きているのだろうか?
生きていることがすごい。生きているだけで周りが変わる。周りが変わり社会が変わる。
その時、生きているのはすごいな。だんだん、死のうと思う気持ちが薄れて来ました。
社会の生きづらさは追いつめられているからです。

大阪芸術大学で音楽療法を習ったり、オペラも習った。声はテノールでした。ちょっと紹介します。
フィレンツェの画像を紹介しながらオペラ歌われました。(素晴らしい歌声でした。会場からアンコールの声が)。
落語家なので、後で別料金で。(笑い)

阪神淡路大震災で知っている人の安否を確認しようと1時間のところが8時間かけ手生きました。そういうこともあり体を壊して12月まで入院していました。
そしたら、病院で歌ってみたらと言われ、ボランティアでやってみるようになりました。
お年寄りが聞いてくれました。そうしていたら、笑うことは大事だなと。
人と人と逢って笑うことが大切。一人で笑っているとこれは怖い。そうしたら、そうだ落語だと気が付きました。そして桂福団治師匠に入門しました。

そして、障碍者の居場所がいるなと思いサロンを開設しました
人間を壊すものは人間である。人を笑顔にするのも人間である。障害のある人の居場所を東淀川に作りました。
実際にその場に来てくれている発達障害のしょうこちゃんを紹介します。しょうこちゃんは一般の会社に勤めましたが虐めなどあって辞めました。
居場所があるといいです。お気楽島というサロンを開いています。しょうこちゃんはビーズで商品を作っています。
しょうこちゃん「嫌な友達から虐められると自分を責めてしまう。同じ障害者の男の子からもひどく言われ、『お前なんかいなくて良い』など。
周りの理解がないということで苦労しました。聴いてくれる人がいるだけでも大きいです」。

次に、きららさん 私の姉弟子。手話で落語しています。サロンでボランティアやっています。
きららさん「傾聴という言葉をよく聞きます。福点さんから失礼にも歳いくつ?と。それで38歳と答えました。
大阪のおばちゃんは人の話を聞かない。自分の話をする。でも、大切な時は、ここと言う時は話を聴いてくれる。その人の身になって話を聴いてくれる。
最後、飴ちゃんでも舐めて元気だしと。大阪のおばちゃんらしく頑張って行こうと思います。皆さんも頑張ってください」。

次は、しょうこちゃんのお母さん、鈴虫さんという芸名でボランティアで活動されています。普段は手品なども紹介しています。
すずむしさん「しょうこが未熟児で生まれて、大変な病気もあるということで、抱くこともできなくてそのまま大きな病院に転院しました。
2歳の誕生日までは抱くこともできませせんでした。
水頭症も黄疸もあるし。どのようにこの子を育てたらよいのかと。そんな時、屋上でこの子と一緒にもう死のうかと思っていました。
その時、男の子と一緒のお母さんが『もうこの子は一週間しか生きられないんです。息子は子どもが大好きで抱っこするのが好きなんです。
病気は移らんし抱っこさせてやってください』。子どもと一緒に死のうかと思っていたのに、この男の子はもう生きられないのに生きている。
それに比べ私は・・・。一緒に生きようと思いました」。

息子が捨て猫を拾ってきたのを抱いた時に、娘を抱いた時を思い出して猫を育てることにした。捨て猫にも親猫がいたはずです。いのちは大切なんです。
どんなに重度でも、一年一年が生きてくれていることがありがたいなと思います。

4つの扉のスライドを見てください。
1)閉ざしている。
2)少し空いている(向こうから待っている状態)。
3)空いている(がどうやって出ていくかがわからない。相手のテンポに合わせる)
4)扉に板が打たれている(親などが扉を閉じさせている)。

頑張ると言う言葉に敏感になって欲しい。限界の時にはそれ以上頑張れない。

視覚障がい者もメールする。声を出してくれる。まだ不十分
僕は恋がしたい が 僕は 鯉 死体 となる

創作落語のメールの話を紹介;
生まれつき目が見えない人がPCで彼女を作る。彼女はOLだと。
誤字や当て字で上手くコミュニケーションが図れない。
お兄さん→鬼いさん
怪我ない→毛がない
それで相手を怒らしてします。もうメールしないと。何故怒ったからわからなかったので、メールを妹に見て貰ったら、当て字がひどいことになっていた。
そこで初めて自分は全盲であると明かしたら、向こうから私は聴覚障害だと。そして、もう一つ黙っていたことがある。
もう年寄りだと。えっ?OLだとメールにあったのでは?と返したら、Old LadyのOLと。

サロンで統合失調症持っていた人が来てくれていた。デザイナーだった。統合失調症を発病して、幻聴、幻覚が出ていました。
幻聴では「全ての女性が僕に結婚してくれと言うんです」と。会社には行けないけど、ここでデザインできて嬉しいと言ってくれていました。
ところが突然サロンに来なくなった。一人暮らししていました。お母さんを愛していたけど、お母さんとの関係がよくなかったそうです。
彼に電話しました。「来いや」。「行きます」。でも来なかった。
その彼が自殺した。あの時、もう一本電話したら(涙声で)、彼の死を防ぐことができたのかと思うと大きな悔いが今も残っています。
周りはお母さんとの確執だったと言ってくれますが。当時携帯電話をアイフォンに変えて電話がかけにくかったのもあったけど。
もう一本電話しといたら。彼の自殺を止められたかもしれないと思います。

電話は顔が見えないけど、向こうでは笑っているかもしれません。ぜひ電話を受ける活動を続けてくださいね。
今はアイフォンをガラケーに切り替えました。
今日もたくさんの人に支えて貰いました。音響をやってくれている人もサロンの仲間です。
皆さんも多くの人を支えていると思ってください。

最後に北米の楽器で。蛍を演奏します、蛍の光ははかないですが、わずかでもいのちを繋いで欲しいと願います。
NHK深夜便で蛍吹いたら反響があってCDを欲しいと、でもCDはなくて設け損ないましたが 桂福点はホラも吹けば笛も吹く。
蛍を吹いてお別れにしたいと思います。ありがとうございました。

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