本の紹介&感想

「女優・半世紀の挑戦 あきらめなかったいつだって」 森光子著 ”100年後のあなたへ”

41歳で初めて主役を貰えた。「放浪記」は50年、2009年に2000回を達成した。文化勲章受章。

女学校に入ったが、母が肺結核で死去し、女学校を1学期で中退し少女歌劇への夢をあきらめた。
従兄弟の嵐寛寿郎(鞍馬天狗)のプロダクションに14歳で入った。
戦争が激しくなり仕事もなくなり、慰問隊の歌手として戦地を訪問したりした。
終戦後はジャズ歌手として進駐軍キャンプへの巡業も行っていた。
29歳の時に肺結核になり、偶然出会った同級生の先が病院で、当時高価だったストレプトマイシンを注射して貰い、よく効いて助かった。
38歳の時、ダイマル・ラケットと共演した舞台『あまから人生』で、洗濯物を干すシーンの8分間に台本がなく「8分間よろしく」とだけ書かれていた。
そこで、アドリブで当時のヒット曲『船方さんよ』、『お月さん今晩は』、『有楽町で逢いましょう』、『俺は待ってるぜ』の4曲を歌った。
偶然にも空港へのハイヤーを待っている間に劇場に入って森の演技を見ていた東宝の菊田一夫に誘われて菊田一夫の作品にでるようになった。
菊田からは「君はあれだよ、越路みたいにグラマーでもないし、宮城まり子のように強い個性もない。だから、脇役でいくんだね」と言われた。
あいつより 上手いはずだが なぜ売れぬ」 いつか主役になりたいと思っていた。

100年後の皆様への中で(森光子さんからのレター)
「私がここまでお芝居を続けてこられましたのは、私が物ごとをかんたんにあきらめなかったからかもしれません。
ものごとには、あきらめていいときと、まだあきらめてはいけないときがございます。
私はどんなに苦しくてもなかなかあきらめない性質でした。もしかしましたら、それがいい結果につながったのでございましょうか。
人生、あきらめたらそこで終わってしまいます。ですから、私は大事なときはいつも次の言葉を頭の中から引っ張り出して自問自答します。
『もうあきらめていいか、まだ投げてはいけないか』と。
若い人は、若さという素晴らしいものをお持ちですから、それを忘れず、自分と向き合って今の時間を精一杯生きてください。
そうすれば、きっと輝くことができます。誰でも、長い積み重ねの中から未来への道が開けてきます。
かんたんにあきらめず、投げず、焦らず、そして人への感謝を忘れなければ、きっとバラ色の未来が開けるはずでございます。」

感想;
森光子さんは、若い時から主役をやって来られたと思っていました。
TVでよく出られていたので。でもその時は「放浪記」に出演を続けながら、TVのお母さん役として出られていたのでした。


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