本の紹介&感想

「御巣鷹山と生きる 日航機墜落事故遺族の25年」  美谷島邦子著(8.12連絡会事務局長)

「御巣鷹山と生きる 日航機墜落事故遺族の25年」   美谷島邦子著(8.12連絡会事務局長)
著者の息子 健ちゃんは9歳で日航機123号に乗り合わせ亡くなりました。
25m泳げたお祝いに、東京から祖父のいる大阪にジャンボジェット機に一人で旅立ちました。
JALのちびっこ一人旅のプランで、羽田で職員にお願いし、大阪で迎える予定でした。

著者は新聞に載っていた遺族の名前から番号案内で連絡を取り、それが広がり集まりを持った。
この苦しみ、悲しみは同じ辛さを抱えたものでないと分かり合えない。
そしてある新聞記者の遺族名簿のコピーを貰い、遺族に連絡し、遺族会を立ち上げた。
遺族会はお互いの情報交換、遺族相互で励ましあい、助け合い、一緒に霊を慰めて行くこと。
事故原因の究明し、今後の公共機関の安全体制を厳しく追及し、責任を明確にしていくことでした。
賠償の窓口にはならないことにしました。賠償は一人ひとり違うこと、
賠償は遺族間でどうしても調整が難しいことから、会に分裂を招かないためのものでもありました。
賠償に関しては情報交換をしていきました。

会報誌“おすたか”、文集”茜雲“をだし、遺族の気持ちの発露の場として助け合いの場として遺族をまとめて行きます。
上野村での多くのボランティア、関係者の多大な協力など、日航機墜落のさまざまな視点から説明がされています。
その後の刑事責任訴訟、他の事故被害者会との連携など。
美谷島さんたちの多大な努力、活動、それに協力する人々、JALの対応など、涙なしでは読めませんでした。


美谷島さんとはあるセミナーで一緒でした。
美谷島さんからお話をしていただき、日航機墜落事故遺族の25年の一部を知りました。
本を読み、少しでも多くの方に知って欲しいと思い紹介させていただきます。
突然、私たちにも起きても不思議ではありません。
その絶望的な状況の中で、どのような態度を選択するか。難しい問題です。
ただ、絶望感のままでいると、絶望感のままであるが、辛くても一歩踏み出して行くと、
その絶望の中からも希望を見出すことができるのではないかということの実践の記録でもありました。

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