本の紹介&感想

「私とは何か 『個人』から『分人』へ」 平野啓一郎著

「私とは何か 『個人』から『分人』へ」 平野啓一郎著
人間には幾つもの顔がある。このことを肯定しよう。相手次第で、自然と様々な自分になる。
人間は決して唯一無二の(分割不可能な)個人(individiual)ではない。複数の(分割可能な)分人(dividual)である。
森鴎外は仕事を為る事、為事と書く。職業というのは、何であれ、その色々な「為る事」の一つに過ぎない。

自傷行為は、自己そのものを殺したいわけではない。ただ、「自己像(セルフイメージ)」を殺そうとしているのだ。
だから、確実に死ぬ方法を選択しない。いや、むしろ逆じゃないのか?
いまの自分では生き辛いから、そのイメージを否定して、違う自己像を獲得しようとしている。
つまり、死にたい願望ではなく、生きたいとという願望の表れではないのか。自傷行為は言わば、アイデンティティの整理なのではないか?

八方美人とは、分人化の巧みな人ではない。
むしろ、誰に対しても、同じ調子のイイ態度で通じると高を括って、空いてごとに分人化しようとしない人である。
分人化は、相手との相互作用の中で生じる現象だ。従って、虫の好かない人たちといると、イヤな自分になってしまうことだってある。
場合によっては、“八方ブス”にだってなり得るのだ。

悩みの半分は他者のせい。中には、ポジティブな分人もあれば、ネガティブな分人もある。
分人が他者との相互作用によって生じる人格である以上、ネガティブな分人は半分は相手のせいである。
ポジティブな分人もまた、他者のお蔭なのである。そう思えば、相手への感謝の気持ちや謙虚さも芽生える。
人は一人で生きてはいけない、ということもよく言われるが、それは、何かの時に助けてもらえるというだけではなく、
私たちの人格そのものが半分は他者のお蔭なのである。
あなたと接する相手の分人は、あなたの存在によって生じたものである。
分人主義は分人を単位として人間を捉える考え方である。

私たちは、日常生活の中で、複数の分人を生きているからこそ、精神のバランスを保っている。
会社での分人が不調を来していても、家族との分人が快調であるなら、ストレスは軽減される。

愛とは「その人といるときの自分の分人が好き」という状態のことである。他者を経由した自己肯定の状態である。
実際は、その相手といる時の自分(分人)が好きか、嫌いか、ということが大きい。
愛する人が存在しなくなったことは、もちろん、悲しい。同時に、もう愛する人との分人を生きられないことが悲しい。

大江健三郎氏「ところが、僕のように、これだけ歳をとってから友人に死なれる場合は、
文章を書くことによって次第次第に、その死んだ友人を自分の中に取り込んでしまうんです。
あるいは、自分がその死んだ友人という他人の中に入り込んでいくんです。
そして、むしろその死者と自分との関係があいますなものになってくる。非常に主観的な関係に、相手を取り込んでしまう感じ」。

あなたの存在は、他者の分人を通じて、あなたの始語もこの世界に残り続ける。
魂を通じて、あの世の知人と交信し続けるということは、実は、時々その死者との分人を生きてみることなのかもしれない。
仏壇に話しかけたり、墓に線香を上げたりする時には、私たちは、その懐かしい分人が蘇ってくるのを感じる。

殺人は、被害者の生命はもちろんのこと、すべての分人を奪いさってしまうことになる。
一人を殺すことは、その人の周辺、さらにその周辺へと無限に繋がる分人同士のリンクを破壊することになる。

個人individiualは他者との関係においては、分割可能dividualである。
分人dividualは、他者との関係においては、むしろ分割不可能individualである。
個人は、人間を個々に分断する単位であり、個人主義はその思想である。分人は、人間を個々に分断させない単位であり、分人主義はその思想である。

感想; 人は相手によって対応を変えていると思います。あの人にはこのことを話しているが、この人には別のことを話していたりします。
会社での行動と他の場面での行動が異なっていることがあります。
この本では、このように相手によって行動が異なっているのを自然として、
それぞれが自分(分人)で、そのそれぞれの自分(分人)が集まって自分だと紹介しています。

親しい人が亡くなることにより、その人との分人が亡くなる哀しみ(あるいは分人が変わって行かなければならない辛さ)があるとの説明はなるほどと思いました。

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