本の紹介&感想

「黒田官兵衛は天下を狙ったのか」 楠木誠一郎著

「黒田官兵衛は天下を狙ったのか」 楠木誠一郎著
NHK大河ドラマ黒田官兵衛が始まりました。初回視聴率が、関東地区で18・9%、関西地区で23・0%だったそうです。
黒田官兵衛は出身が姫路(兵庫県)、知行地が豊前(北九州市東部と大分北部)、
関ヶ原以降は筑前(福岡県)なので、関西の人にはなじみが高いのでしょう。
秀吉が天下を取れたのは、二人の半兵衛がいたからと言われています。
もう一人が竹中半兵衛です。竹中半兵衛は病弱で、信長が亡くなる前に亡くなっています。

黒田官兵衛の父は姫路城主の小寺家の家老をしていました。父を引き継ぎ家老として主人に仕えました。
当時は、毛利に付くか、信長に付くか、兵庫や岡山の城主は迷っていました。黒田官兵衛は信長に付くべきだと城主を説得しました。
テレビでは織田信長が今川との桶狭間の戦いで今川義元が桶狭間で休息を取っているとの情報を伝えた家臣に、
一番の褒美を与えたことを聞き、信長に関心を持つような伏線がありました。
しかし、古くからの家来の多くは毛利派でした。一時は信長に付くことを城主が決断しました。
その証として、信長に城主の息子の代わりに自分の息子(後の黒田長政)を人質に差し出しました。
信長は人質を秀吉に預け、秀吉の妻ねねに育てられました。

その後、荒木村重が信長に反旗を翻したことから、明智光秀や多くの信長家臣が説得しましたが成功しません。
そんな時、主人の小寺も毛利に付こうとしました。小寺は荒木村重が信長に付くなら自分も信長に付くとのことで、
黒田官兵衛はよしみがあった荒木村重を説得に行きましたが、逆に捕虜にされてしまいました。
それは事前に小寺が黒田官兵衛を捨てる判断をしていて、毛利に付くと邪魔な黒田官兵衛を除くためだったからでした。
小寺から事前にその旨(捕虜にするか、殺害)が荒木村重に伝えていたようです。
荒木村重が黒田官兵衛を殺せなかったのか、それとも何かの時に役立つと思ったのかはわかりません。

黒田官兵衛が戻って来ないことに不信を抱いた信長は黒田官兵衛を裏切ったと思い、
竹中半兵衛に黒田官兵衛の息子長政を殺すように命じました。
竹中半兵衛は殺したことにして、長政をかくまいました。信長の命に従わないことは死を賜ることを意味しています。
幸い、殺されなかったのですが、じめじめした牢獄に一年閉じ込められてしまいます。
命は何とか長らえましたが、杖なしでは歩けなくなっていました。
信長が、黒田官兵衛が牢屋に閉じ込められていたことを知ったのは、荒木村重を滅ぼした後でした。
きっと竹中半兵衛に命じたことを後悔したと思います。長政が生きていたことを知り驚くとともに竹中半兵衛には感謝したと思います。
その時は既に竹中半兵衛は亡くなっていました。

この後黒田官兵衛は秀吉の軍師として、秀吉の戦の手助けをします。
毛利の高松城の水攻め、本能寺変での中国大返し、小田原城攻略も竹中半兵衛の策と言われています。
秀吉に天下を取らせようとしたとのことです。

多くの武勲を上げていますが、秀吉は黒田官兵衛には論功行賞で褒美をあまり与えていません。
それは沢山の知行地を与えると、自分の代わりに天下を取ってしまうと、秀吉自身が恐れていたからと言われています。
秀吉を裏切った秀吉子飼いの大名達の何人かはその後、何だかんだと徳川家から難くせを付けられお家断絶になっていますが、
黒田家はその後も明治維新まで福岡藩の城主として続きました。

黒田官兵衛は状況を判断する知力に優れていたこと、人との関係を重要視してむやみに相手を殺戮する手法をとらなかった。
兵の温存に努めるとともに、敵の兵も味方に付ける戦略・戦術でした。
秀次が秀吉に戦略・戦術の判断を仰いだ時、秀吉は軍師の黒田官兵衛の指示に従うように伝えたと言われています。
秀吉から厚い信頼と恐れまでも抱かせた人物でした。

関ヶ原の戦いでは、息子長政は黒田官兵衛の命により家康側に付きました。
徳川家康か石田三成か、どちらが天下を取るかを見定めていたからだと思います。
当時、豊前の城主だった黒田官兵衛はお金で兵を集め、短期間に九州の北半分を制圧しました。
関ヶ原の戦が1日で決着するのではなく、数か月に及べば、九州を制圧していたと言われています。
そうすれば毛利と協力して天下を取る気持ちは持っていたようですが。

戦は武力ではなく知力、人をいかに味方にするかを早くから知り、実践した武将だったようです。
いくら優秀でも、それに賛同して付いてきてくれる人がどれだけいるかがキーなのだと思います。

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