本の紹介&感想

森村市左衛門の無欲の生涯  砂川幸雄著

「森村市左衛門の無欲の生涯」  砂川幸雄著
森村の家は商売をやっていてことから。当時の慣習で他のお店に13歳で丁稚奉公にだされました。
仕事が重い荷物を運ぶ仕事でもあり、3年で身体を壊して家にもどりました。
その後、問屋から品物を仕入れて販売していました。その内、横浜で海外の品物を仕入れて江戸で売ることをしました。
大名屋敷にも出入りしました。誠意を持って対応していたので、中津藩に見込まれ、いろいろな品物の仕入れを頼まれます。
中津藩出身の福沢諭吉と知り合ったのもそれがきっかけでした。
いろいろな商売をして失敗もしますが、日本のものを米国で販売することを弟と一緒にします。それが上手く行きました。
日本の陶器なども米国向けにデザインすると良く売れ、そのために日本陶器合名会社を作りました。
今のノリタケカンパニーです。日本陶器合名会社から、TOTO、日本ガイシ、日本特殊陶業、INAXが生まれました。

一緒にやってきた14歳下の弟が45歳で、息子が26歳で亡くなりました。森村はその時を述懐しています。
「一時はほとんど茫然として左右の手を失ったような気がした」
「これは天が自分に向かって若い者に代わって最後まで働けということをお命じになったのであろう。
 はたしてしからば無用の愁歎に暮れているべき場合でない。また、いたずらに仏事を営むも無益の沙汰である。
 これを機として精神を奮い起こし、ますます身体を強壮にし、両人の精神を受け継いで大いに奮闘しなければならぬ」
  (突き付けられた人生に対してYesと受け容れて意味を見出して生きて行くかどうか)

(就職した人が、こんな仕事をするために入ったのではないと辞めて行ったことに対して)
「丁稚小僧のする仕事も、みな実業家に必要な活きた学問の一つであって、みなこれから叩き上げねばならぬものであることを知らなかった。
 いかに太閤さんが不世出の英雄でも、一足飛びに関白になったのではなく、草履取りから歩一歩叩き上げたように、
 いかに学校教育はあっても、やはり丁稚小僧のことから稽古をしなければ決して立派なる実業となることはできぬ。
 実際の経験がなくてただ学才ばかりで初めから実業の経営が立派にできるような人は、それこそ十万に一人くらいのものであろう。

 この青年はこれを知らなかったのである」 森村はこんな言葉を残している。
「よしややり損じても、また儲けなくても、国家のためになることならば、ドンドンやってみるがよかろう。
 自己を犠牲としても、国家将来のため、社会人類のために働くという覚悟は、事業を成す秘訣であると私は断言する。
 いやしくも自分が犠牲となる以上は、少なくとも一つの精神を後世に遺しておかなければならぬ。
 尾となっても枯れてもよいから、何か一つ凛子ある精神を遺しておけば、
 その人死すとも同志の人が必ずそれを継いでくれるであろうから、いつかは成功しないことはないのである」

森村は日本女子大創立のための寄付や、その他多くの寄付をし、
三輪田学園、高千穂学園への援助、森村学園創立しました。
北里柴三郎の伝染病研究所設立なども福沢諭吉と一緒に応援しました。
森村は晩年、キリスト教に帰依し普及に努めました。

森村一人ではなく、弟の豊、陶器の主担当者となった大倉孫兵衛、米国の店を豊死後に引き継ぎ日本の事業を支え続けた村井保固など、
多くの人を引き付け、人との出会いを大切にして、人を生かしての生涯でした。

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